2019/3/18-23
- 2019.03.18
- ディボーションの友
2019/3/18(月) 担当 高谷清師 ヨハ 12:27−28 賛美 聖歌 653
天からの声について、そばにいた群衆は、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。イエスは「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。」と言われた。ヨハネは「イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。」と述べている。御名の栄光について二つのことが言われている。第一は「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。」のである。神はかつて「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」(創3:15)と言われた。またパウロは「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」(?コリ15:55-57)と述べている。私たちはイエスの十字架によってサタンの支配から解放されたのである。
2019/3/19(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書1:2 賛美 新聖歌427
北王国が滅びに向かう時代に北王国への預言者として召されたホセアに最初に神が命じられたのは決して簡単なことではなかった。神はホセアに淫行の女を娶れと言われた。なぜわざわざ神の命令に背く生活をしている女性を娶らねばならないのか、神に仕える人は生涯を通じて神の前に生きる正しい者としてのモデルとなるべき存在なのに何故わざわざこのような結婚をしなければならないのか、と疑問がわいてくる。そして「信仰熱心」であればあるほど、『いや神はこのようなことをおっしゃるはずがない』と考えてしまう。実際にゴメルがどのような生活をしており、どのような信仰を持っていたか、聖書は語っていない。ただ北王国が淫行にふけっているから、この淫行の女性をめとれとだけ語られる。そして民が主から離れて淫行にふける、つまり、神のみを愛して神のみに仕えるのではなく、おそらく偶像礼拝にふけり、その結果、神を捨てたという。
神を真実に愛し、仕えているかという点を神はご覧になる。この時代のイスラエルの民だけではなく、罪赦されて主のものとされた私たちの心もまた神はご覧になっている。
2019/3/20(水) 担当 高谷清師 ヨハ 12:27−28 賛美 新聖歌 341
御名の栄光について言われていることの第二は「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」ということである。「すべての人」についてカルヴァンは「神の羊の群れに属する神の子供たちに結びつけて考えなければならない。しかし、わたしは、よろこんでグリュソストモスの怠見に賛成する。かれはこう言っているのだ。イエス・キリストがこの普遍的な代名詞のすべてを用いたのは、前に10:16にあった、ひとりの牧者とひとつの羊小屋とがあるだろう、という言葉どおりに、教会が異邦人たちからもユダヤ人たちからも、おなじように集められることになるだろうからである、と」(カルヴァン新約聖書注解?ヨハネ福音書下新教出版社1965下P421)と記している。イエスは弟子たちに「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハ 14:3)と語っておられる。終わりの時にはイエスを信じるすべてのものは主の御許に召されるのである。
2019/3/21(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書1:2-5 賛美 新聖歌340
ホセアとゴメルの子の名が神によってイズレエルと定められる。それは「神が植えられる」という美しく喜ばしい名である。そしてこれはイスラエルの平野の地名でもあった。この土地は過去に様々な死と暴力が経験された場所であった。ここで、イエフはイスラエルとユダの王を殺し、イゼベルは残酷な死に方をした。北王国のアハブ王の7人の子らも見せしめに殺され、バアルに仕える者が大量に命を落とした。この地と死は切っても切れない繋がりがあった。この地名を聞くたびにイスラエルの過去の罪と裁きが思い起こされた。ホセアとイスラエルの民はこの子の名前を聞くたびに民の大きな罪と神の裁きを思い起こすことになる。さらに神はこの名づけの理由として、この場所で多くの血を流したイエフ王家を滅ぼされるという重要なメッセージを語られる。
神の言葉を正面から受け止めることは時として大きな痛みを伴う。人々は恵みの言葉を聞きたいと願うが、神は私たちを背きと罪から連れ戻すために恐ろしく、厳しいメッセージをも語られる。聞きたいことだけを聞くのではなく、常に神の言葉をすべて受けとめ、深く考え、神に正しく応答しよう。
2019/3/22(金) 担当 高谷清師 詩 42:7−12 賛美 新聖歌 209
追放の地にあって失意の日々を送る詩人に向って人々は絶え間なく「お前の神はどこにいる」と罵り続ける。その声に彼の苦悩は深まり、絶望感はつのる。そのような状況の中にあって、詩人は神のみ前で魂を注ぎ出し、祈り、かつて神殿で祭りに集う人の群れと共に進み神の家に入り、ひれ伏したことを思い起こし、「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/「御顔こそ、わたしの救い/わたしの神よ」と告白し、信仰に立って歩み始めた。しかし、現実世界に立つとき、彼を苦しめる者の「お前の神はどこにいる」という絶え間ない嘲りの言葉に意気消沈し、自らの岩なる神に「なぜ、わたしをお忘れになったのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ/嘆きつつ歩くのか。」と訴える。神との交わりの中で力を得て再び「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/「御顔こそ、わたしの救い」と。わたしの神よ。」と告白し、再び信仰の歩みを始める。この箇所についてA. ヴァイザーは「信じて待ち望む方向へと歩み出したのに、詩人の思いは、いま克服しようと努めたばかりの苦痛に沈んでしまう。それを最初の折り返し句に言葉どおり続けてあからさまに述べるが、それこそ心理的に正しく、本心から正直であることを証ししている。」『ATD旧約聖書註解詩篇中』ATD・NTD聖書註解刊行会1985、P7)と述べている。私たちの信仰の歩みにおいて、試練に遭遇するとき、かつての恵みを思い返し、それを希望として信仰に立って歩み始めようとしても状況が改善しない時、再び悲嘆に沈む経験をする。しかし神は真実なお方である。パウロもまた「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。」(?コリ4:8-10)と述べている。
2019/3/23(土)担当 高谷由紀子師 ガラ 2:19-20 賛美 聖歌 91
私たちは小さな家庭菜園を耕しています。当地方では今は種まきの季節です。収穫の時を楽しみに、土を耕し、種をまき、水を注ぎ、肥料を施し、雑草を除き、成長の環境を整えます。しかし種が芽を出し、成長するのは、種の内に宿る命の力です。それは神のものであり、人が作り出すことはできません。同じように、人の命は神の内にあり、神のものです。人々が罪から救われて永遠の命に至るために私たちが為すべきことはいのちのことばを伝え、執り成しの祈りをささげることです。
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