2019/5/13-18
- 2019.05.13
- ディボーションの友
2019/5/13(月) 担当 高谷清師 ヨハ 13:1-11 賛美 新聖歌 225
イエスは順々に弟子たちの足を洗い進め、ぺトロの番になった。師であるイエスが自分の足を洗おうとしておられるのを見てぺトロは恐縮し、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。ぺトロが「わたしの足など、決して洗わないでください」と言う時、自分の足の汚れはイエスの手を煩わせるまでもなく、自分で洗い落とせるという思いがあった。後、聖霊に満たされ、真理に導かれたぺトロは「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使 4:12)と述べている。私たちの罪を洗い清めるのはイエスの血潮以外にはないのである。イエスの血潮による洗いを拒むとき、イエスとは何の関係もないものとなる。律法遵守の努力も、あらゆる修業も、苦行も、人の罪を洗い清めることはできない。
2019/5/14(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書4:16-19 賛美 新聖歌474
強情な雌牛という強烈なイメージを用いてイスラエルの姿が語られている。彼らは真の神を自覚的に拒んだわけではなく、神を礼拝することから心が逸れて行っていることに気づかぬまま偶像礼拝に深く落ち込んでいく。認識のないまま泥沼に引き込まれるような状況であった。ホセアはこの民は強情だと指摘している。彼らは強情になり、いったん陥った、魅力的な姦淫という罪を含む偶像礼拝に執着し、預言者の警告を聞いてももはや悔い改めて正しい道に引き返そうと言うことすらなくなっている。それでも人間は勝手なもので神との特別な関係のゆえに神は愛と忍耐をもって彼らを青草の野に導かれるとどこかで期待している。ホセアはそれに対して民の強情さのゆえに神は彼らをなすがままにされるという。
私たちが何をしていようと神はいつでも私に愛を注がれると考え、神に背きながらも一方で神が私たちをよいもので満たしてくださると当然のように期待する。これはホセアの生きた時代から変わらぬ人の姿である。神は値ない者に恵みを与えてくださった。だからこそ値なきものである私は、今日、神の愛を感謝して心をかたくなにすることなく神だけを礼拝する。主が一歩一歩の歩みを導いてくださる。
2019/5/15(水) 担当 高谷清師 ヨハ 13:1-11 賛美 新聖歌 216
イエスは「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」と言われた。これについてヨハネは「イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである」と記している。イエスはユダが自分を裏切ることを知っておられた。しかしイエスはユダの足を洗われた、即ち、ユダをこの上なく愛し抜かれたのである。イエスは「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタ 5:44-45)と教えておられる。救われたとはいえ、私たちには好感の持てる人持てない人、話しやすい人苦手な人、むしの好く人好かない人、等がある。しかし、どのような人にも御言葉を伝えよう。その人を主が愛しておられるからである。
2019/5/16(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書5:1-2 賛美 新聖歌390
偶像礼拝の罪がイスラエルに蔓延し、人々が強情にそこにとどまっている状況を示したのち、指導者たちに対するさばきの言葉が述べられる。祭司は宗教的な導き手であった。イスラエルの家は年長者たちで民の代表として社会を管理していた人々である。また王の家の者、政治的指導者にもこの言葉が向けられる。なぜ彼らは裁かれるのか。それはミツパという古くからのイスラエルの神、主を礼拝する場所を偶像礼拝の地と変えてしまい、またタボル山でも異教の礼拝へと民を導いたからであった。神はここで彼らに対して「懲らしめる」と言われる。神は決して感情に任せて彼らを打ちのめされるのではない。偶像礼拝に陥り、強情になっていく彼らを正しい道へと連れ戻すために、懲らしめを通して教えられる。
どれほど人が勝手に神から離れて神を拒み続けようと、愛と忍耐をもって懲らしめ、教え、正しい道へ導こうとしてくださる神の深い愛に感謝する。今、心が頑なになっていないか自分を顧みよう。
2019/5/17(金) 担当 高谷清師 詩 44:18-23 賛美 新聖歌 394
続く試練の中に在っても詩人は自らの潔白を言い表す。彼らの信仰を苦しめているのは当面している苦難もさることながら、苦難を罰として理解できないという事実である。イザヤは「彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。」(イザ 53:9-10)と述べている。また、パウロは「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ロマ 8:35-39)と述べている。私たちに降りかかる苦難につい理解できず、苦しむかも知れない。しかし、それによって神の御旨が成り、神の栄光が顕されるなら、それは私たちの無上の喜びであり、栄誉である。
2019/5/18(土)担当 高谷由紀子師 創 37:3-4 賛美 新聖歌 338
創世記の記者は「イスラエルは、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった。兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった。」(創 37:3-4)と記しています。その為兄たちは機会をとらえてヨセフを奴隷として売ってしまいました。売られたヨセフは幾多の苦難のなかを歩みましたが、神は常にヨセフと共におられ、御手をもって導き、エジプトの権力者とされました。それは飢饉の時にイスラエルを救うことになりました。苦難の中に在る時は分かりませんでしたが、この時点に立って、それらが神の恵みの御業であったことを悟りました。私たちは苦難の中を歩ませられる時、その意味が分からず、つぶやきたくなります。しかし神は計画をもっておられます。エレミヤ書には「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」(エレ 29:11)と記されています。信仰をもって歩みましょう。
-
前の記事
2019/5/6-11 2019.05.06
-
次の記事
2019/5/20-25 2019.05.20