2019/11/4-9
- 2019.11.04
- ディボーションの友
2019/11/4(月) 担当 高谷清師 ヨハ 15:15 賛美 新聖歌 426
本節においてイエスは「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」と語っておられる。「王の王」であり「主の主」であるお方が信じる者を「友」と呼んでくださる。何たる光栄であろうか。旧約聖書においてはアブラハム唯一人が「わたしの愛する友アブラハム」(イザ 41:8)と呼ばれている。主は「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。 わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」(創 18:17-19)と言ってご自身のご計画をアブラハムに知らされた。僕と友の違いは、僕は主人が何をしているか知らないが、友は主人の心と計画を知らされているからである。神の御心を知らされた私たちは、神の御心を生きよう。
2019/11/5(火) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書2:15後半-17 賛美 新聖歌176
「あるいは」主が思い直して祝福を与えてくださるかもしれないという、決して楽観できない現状において、それでも神は民が心を一つにして悔い改めの断食を行うように呼びかけている。年齢を問わず、すべての民に呼びかけられている。たとえ人々にどのような都合があっても―花婿や花嫁でさえも―一切の活動を横において―民が一つとなって神の御前に出て祈り、悔い改めよと呼びかけられる。そして、民が神の目に適う者であるという条件においてではなく、神の御名のゆえに憐みを求めよと言われる。
民がさばきを受けたのは彼らの自己責任であった。しかし、その罪に対するさばきを神が終わらせ、裁きに代えて祝福を与えられるとすれば、それはただ神の民に対する憐みと神ご自身の栄光のためである。悔い改めにおいては心を一つにして、すべての日常の活動や必要を横においてまず神の前に出ることを求められる。神に背いてしまったと気づいた時には、何よりもまず心から神の御前に出て、祈ろう。
2019/11/6(水) 担当 高谷清師 ヨハ 15:15 賛美 新聖歌 209
ある調査によれば「中学生や高校生が心を開き自分の悩みを打ち明け、相談する相手で一番多いのは親ではなく教師でもない。友である」と報告されている。信じる者を「友」と呼んでくださるイエスこそ、私たちの良き理解者である。このイエスは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。(マタ 11:28-29)と招いていて下さる。またイエスは「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。」(ルカ 12:4-5)と語っておられる。
人の心の奥底には誰にも語ることの出来ない重荷、悩みや苦しみがある。しかし、イエス様には心を開いてすべてを打ち明けて祈ろう。イエスはすべてに最終的な良き解決を与えることの出来る唯一のお方である。
2019/11/7(木) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書 2:18-24 賛美 新聖歌361
恐るべき主の日を経験して嘆き悲しむ人々に対して、主は突然そのさばきの終焉を告げ、いなごの大群に代えて穀物とオリーブを与えると言われる。それは民の悔い改めが評価されたからではなく、主ご自身が国を愛し、民を憐れまれたからだという(2:18)。神ご自身の御心によって裁きの時は終わり、回復が与えられる。この再度与えられた祝福の源である神を忘れてはならない。かつての豊かな実りが回復されたという物理的な豊かさの奪還という点に心を奪われてはならない。たとえ過去の繁栄が回復されたとしても、そこに神の憐みがなければむなしい。
神は御心に従って恵みを取り去り、また、与えられる。どんな時でも私たちは目先の状況に一喜一憂して振り回される信仰生活を送ってはならない。
2019/11/8(金) 担当 高谷清師 詩 49:14-16: 賛美 新聖歌 201
自分自身とその力を頼り、「自分の言葉に満足する」だけの自己中心的な生き方をして栄華を誇る人々を恐れる必要はない。彼らの栄華の土台は死が臨むときにはすべてが崩れ去ってしまうからである。この世で栄華を誇った人びとも、死の前には何の力もない。陰府に置かれた羊の群れのように、何の希望もなく、死の支配に服する。しかし、自分の力ではなく神に信頼する人々の人生は神が決定権を持っておられる。神は自分ではなく、神に信頼して歩む人々の魂を贖い、陰府の手から取り上げてくださる。
世の″成功者″の言葉を聞く時、彼らの口からはしばしば「どんな時にも自分を信じて頑張りました」という言葉が発せられる。また、彼らが話すのを見る時、自信と確信に満ちており、他者の言葉なぞには耳をかそうともしない。しかし聖書は「人間の前途がまっすぐなようでも/果ては死への道となることがある。」(箴 14: 12)と述べている。またイエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハ 14: 6)と語っておられる。永遠の命を得させるのはイエス・キリストだけである。
2019/11/9(土) 担当 高谷由紀子師 ヨハ 9:1-3 賛美 新聖歌 358
生まれつき目の見えない人に出会った時、弟子たちはイエスに「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」と尋ねました。これに対してイエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」とお答えになりました。人は病気に罹ったり災難に遭遇したりすると本人や本人の親族が罪を犯したことが原因ではないかと考えがちです。しかしイエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」とお答えになりました。イエスは私たちの不幸を通してもご自身の栄光を現わされるお方です。
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