2019/12/30-2020/1/4

 2019/12/30(月) 担当 高谷清師 ヨハ 16:12-14 賛美 新聖歌 384

 イエスは弟子たちを世に残して去って行こうとしておられる。この時に臨んで弟子たちに言っておきたいことがたくさんあった。しかしその時点においては、弟子たちはイエスが語られてもそれを理解する能力を持ってはいなかった。しかし、イエスは言われる「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」と。パウロもまた「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。」(?コリ2:14)と述べている。私たちが神の言葉を理解し、伝えることが出来るのは自らの能力によるではなく、聖霊によるのである。常に聖霊を求め、その導きに従って歩もう。

 

2019/12/31(火) 担当 ラウジー満世師 アモス書2:6-8  賛美 新聖歌389

 諸国に対する言葉を聞き、神の公平な裁きを喜んでいたイスラエルの民に畳みかけるように罪の告発がなされる。イスラエルの罪の告発は諸外国に向けられたものよりも詳細になされる。神が裁きのターゲットとなさっていたのはまさにイスラエル自身であった。富める者が貧しい者を虐げ、様々な罪が神を礼拝する宮である神殿で行われている。神の定めに完全に背くことが神殿において行われている。神殿で宗教的儀式を行うことによって神に従っていると信じていたであろう民は、実は異教の習慣に従うことによって神に背いていた。

 神に従うためには常に神の御言葉によって正しく従う道を知らなければならない。神への愛と、熱心と、み言葉を求める知性によって神の御心にかなう歩みを続けよう。 

2020/1/1(水) 担当 高谷清師 ヨハ 16:12-14 賛美 新聖歌 420

 イエスは「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」(ヨハ 15:26)と教えられた。そして今「その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り」と語られる。かつてイエスは「わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。」(ヨハ 12:49)、「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。」(ヨハ 14:10)と語られた。イエスは父から受けた言葉を語られた。同じように約束によっておいでになる聖霊はイエスの言葉を語り、その真理を明らかにされるのである。ヨハネは「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。」(?ヨハ4:1-3)と述べている。年が改まり、終末が迫り、反キリストの霊がその働きを強める今、しっかりと反キリストの霊を見分け、退けよう。

 

2020/1/2(木) 担当 ラウジー満世師 アモス書2:9-11  賛美 新聖歌232

 ここで神がこれまでイスラエルをどのように導いてこられたかを振り返っている。それによって神の力がいかに絶大であるかを改めて知ることが出来る。あらゆる敵からイスラエルを守り、奴隷の地から導き出し、必要に応じて神の言葉を伝える預言者を起こして彼らを正しく導かれた。これまで神はイスラエルを守り続けてくださった。この偉大な力ある方が、一方ではイスラエルを裁くこともお出来になる。イスラエルの民は選ばれたものであるという自覚に基づいて恵みを求める。しかし同じ神がその御力をもって、神を侮る人々を裁く方でもあられる。

 恵み豊かな神に感謝すると同時に、神の公平な裁きの前に立つときに罰ではなく、正しく従ったと受け入れていただけるよう、畏れをもって主の御前に出よう。

 

2020/1/3(金) 担当 高谷清師 詩 50:14-15 賛美 新聖歌 165

 「告白を神へのいけにえとしてささげ/いと高き神に満願の献げ物をせよ。それから、わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによって/お前はわたしの栄光を輝かすであろう。」と語られる。神の前に罪を犯し、エデンの園から追われ、永遠の死に定められた人間は、いかなる方法をもってしても自らを救うことはできない。それが出来るのは神だけである。人が救われる為には神が至高者であられることを告白し、御前に自らを低くし、神を賛美し、神に祈り求めることが唯一の道である。イエスは「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハ 4:24)と教えておられる。真の礼拝をささげる時、苦難の日に私たちを救い、ご自身の栄光をあらわされる。

2020/1/4(土) 担当 高谷由紀子師 ヘブ 12:1-3 賛美 新聖歌 459

 今年は東京オリンピックが開催されます。世界中のアスリートたちが栄冠をめざして日々練習に励み、技を磨いています。クリスチャン生涯もこれらのアスリートに似ています。クリスチャンは目標である御国を目指して日々励んでいます。そのために障害となるすべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜かなければなりません。しかしそれは長い年月にわたるものであり、時には気力を失い、疲れ果ててしまうようなこともあります。そのような時、私たちの直面する試練をはるかに超える試練に直面し、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍ばれたイエスのみ姿を仰ぐことによって新しい力を受け、自分に定められている競走を走り抜くことが出来るのです。