2020/10/5-10

 2020/10/5(月) 担当 高谷清師 ヨハ 19: 31-37 賛美 新聖歌 235

 ヨハネはこの段落の最後に「また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある」と記す。これは「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。」(ゼカ 12:10)の一部の引用である。この箇所について菅隆志師は「この箇所は「神に対して犯した罪についての神の民の終末論的嘆き」(ハホスキンス)を示している。まことにイエスの十字架は罪なき神のひとり子イエスを十字架につけた人間の罪のあらわれであり、嘆きの十字架である。だが、同時に、十字架は預言の成就であり、恵みと勝利の十字架でもある。イエスの十字架にあって、イエスを審いた人間は逆に審かれ、審かれたイエスは人間を審き給うのである。しかも審かれた審き主であるイエスは、自らの犠牲によってすべての罪をきよめ、救う救い主でもある。その故に十字架は恵みの十字架であり、勝利の十字架であり、栄光の十字架なのである。「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう」(黙示録1:7〉と記されているように悲しみと痛みと嘆きをもって神の子イエスの十字架を仰ぐものは、イエスより流れる水によってきよめられ、血によって救われ、十字架を通して恵みを与えられ、栄光を主に帰すことであろう。」(説教者のための聖書講解No3066日本基督教団出版局1980)と述べておられる。人はイエスの血潮によって罪赦され、神の子たる身分を授けられながらも、肉の弱さのゆえに罪を犯す存在である。しかし、その罪を真実に悲しみイエスの十字架を仰ぎ見る者には無限の赦しを賜るのである。

 

2020/10/6(火) 担当 ラウジー満世師 ミカ書3:1-4  賛美 新聖歌 392

 この言葉はイスラエルの指導者たちに向けられている。「頭たち」と呼ばれているこの人々は司法をゆだねられていた人々であった。彼らの責務は法と秩序を守ることであり、正しくさばくことであった。社会の有力者で、尊敬される立場にあり、権力と地位を持っていた。神を知らぬ世界では法がすべての原則であろう。しかしイスラエルにおいて正義は神から出るものであり、すべての権威は神の権威に服する。それゆえに指導者たちは神の言葉に従って善を知り、愛し、民全体が神の正義に従うように導く責任があった。しかし彼ら自身が神の正義に従わず、善を憎んでいた。社会の権力者がこのようなふるまいをするとき、皆が自己保身に走り、悪を愛する権力者に忖度し、神の御心に従って正義を行うことができなくなる。弱者はただ苦しみ、無力感を持つだけである。しかし神は頭たちの悪を知っておられる。そして人々が指摘できなくても神は指導者たちの罪を指摘なさる。

 今の時代にも指導者の立場に立つ者はこの言葉を聞いて自らを律しなければならない。教会の指導者は尚更である。信仰者の中でリーダーとしての役割を与えられたならば、人々を愛し、神の前にへりくだり、忠実に与えられた務めを行いたい。

 

2020/10/7(水) 担当 高谷清師 ヨハ 19: 38-42 賛美 新聖歌 308

 「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」と豪語した勇敢な弟子たちはイエスが捕えられるや、イエスを否み、逃げ去った。十字架の許に留まり、イエスの最後を見届けた弟子は福音書の記す限りではヨハネだけであった。イエスが息を引き取られた時、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出たのは、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフであった。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。こうしてイエスの遺体は葬られた。アリマタヤ出身のヨセフもニコデモも、周りの人々を恐れて、イエスの弟子であることを隠していた者たちである。イエスの死に際し、逃げ去った、豪語する弟子たちに代わって、彼らは勇気をもってイエスの遺体を取り降ろし、イエスを神の子羊にふさわしく、丁重に葬ったのである。普段は目立たなく、隠れており、指導者からは軽んじられ、馬鹿にされながらも地味で真実な信仰の持ち主こそ、求められる人である。

 

2020/10/8(木) 担当 ラウジー満世師 ミカ書3:1-4  賛美 新聖歌366

 社会の人々がその罪を指摘できない指導者たちに対して神ははっきりと彼らが「善を憎み、悪を愛する者」(3:2)であると語られた。神は頭たちが表向きは立派にふるまっていても実際には弱者を搾取し、その命をも軽視していることをしっかりと見ておられる。そして、権力を利用して社会的な罰から逃れる頭たちに向かって、悪を行い続けながら神に助けを求めて叫んでも神はお答えにならないと断言される。

 「神は愛である」という言葉を盾にして、自分では神に背いて悪を行い続けて神を侮りながら、当然神の助けを受けられるものと考え、要求していないだろうか。さらにそれが拒まれると神を非難し、不満をぶつけていないだろうか。心から神を愛する人々は、神の思いを自分の思いとして、悪を憎み、罪を犯した時には心から悔い改め、砕かれた心をもって主の御前に出るのである。

 

2020/10/9(金) 担当 高谷清師 詩 56:13-14  賛美 聖歌 254

 詩人は「神よ、あなたに誓ったとおり/感謝の献げ物をささげます。」と表明する。それは「あなたは死からわたしの魂を救い/突き落とされようとしたわたしの足を救い/命の光の中に/神の御前を歩かせてくだ」さるからである。彼は戦いを挑む者、陥れようとする者によって踏みにじられ、虐げられ、命を奪おうとしてつけねらわれ、それによって嘆き苦しみ、涙して来た。四面楚歌の中で詩人に味方する者は無く、彼は神に訴える以外に、祈る以外に無かったのである。その祈りの中で、神との深い交わりを与えられ、「神に依り頼めば恐れはありません。人間がわたしに何をなしえましょう。」との信仰へと導かれる。まことに、神は死から信仰者の魂を救い、突き落とされようとした信仰者の足を救い、命の光の中に神の御前を歩かせてくださるお方である。

 信仰の世界は多数決の世界ではない。聖書において語る多くの預言者を見よう。教会歴史が語る多くの殉教者を見よう。人々は世俗における繁栄と安寧を求め、預言者を受け入れず、信仰者を受け入れなかった。神の御子であられる主イエスさえも、最後は弟子たちにさえ捨てられ、ただ一人孤独のうちに十字架に架かり、死に赴かれた。しかし神は預言者の上に、信仰者の上に、そしてご自身の御心に従って十字架の死に赴かれた御子の上に栄光を顕される。御子の血潮によって救われ、神のものとされた者(地上の制度によってではなく、心を見られる神によって)は肉の生死を貫く神の国の価値観に、礼拝に生きよう。

 

2020/10/10(土) 担当 高谷由紀子師 ヨハ 4:13-14  賛美 新聖歌 267

 主はガリラヤへの途上サマリヤのシカルの町にあるヤコブの井戸の傍で休んでおられた。そこにサマリヤの女が水をくみに来た。この女にイエスが「水を飲ませてください」と言われたことからサマリヤの女とイエスとの会話が始まった。イエスは「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」と語られた。「この水」とはサマリヤの女が汲み上げた水であり、世が与えるものです。それは手にすればするほど渇きを覚えさせ、満足することを知りません。イエスが与えてくださる水とはイエスを信じることによって与えられる永遠の命の水であり、それは尽きることがないのです。