2020/12/28-2021/1/2
- 2020.12.28
- ディボーションの友
2020/12/28(月) 担当 高谷清師 ヨハ 21:18-19 賛美 聖歌 273
ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示されたイエスは、その言葉に立ってペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。イエスは「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(ヨハ 10:11)と語られた。更に「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」(ヨハ 10:17―18)と語っておられる。イエスに従う道、それは世俗における安楽と栄華に満ちた道とは限らない。世においては苦難と死の道であるかもしれない。しかしそれは永遠の命の道である。
2020/12/29(火) 担当 ラウジー満世師 ミカ書6:9-12 賛美 新聖歌21
エルサレムに対して語られている。人々は主の御名を敬うことが知恵であると理解している。知識としてはしっかりと自覚している。しかし神は彼らの不正な富を見ておられ、それを認められるだろうかと民に問いかけられる。ここで民から聞こえるべき答えは、神は不正な富を見逃されるべきではないということである。しかし現実問題、都に住み、不正な富を得て私腹を肥やす人々は神が現実に彼らの生活の隅々にまで心を留めておられ、共に歩んでおられるということを自覚していない。頭では神とはどのようなお方かという情報を持っているが、それが現実の生活には適用されていない。
私たちの信仰生活も、聖書に書かれている善と悪については知っているが、それを現実の生活からほど遠いものと受け止め、神は自分の現実の生活にかかわることなどないと言わんばかりの生き方に陥っていないだろうか。神の言葉を読み、理解する者は、それを受け止めて実践するのである。み言葉が生活において実践されてこそ、神と共に歩むクリスチャンとして生きているのである。
2020/12/30(水) 担当 高谷清師 ヨハ 21:20-23 賛美 新聖歌 201
イエスの言葉に従ってぺトロはついて行った。途中、ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。するとイエスは「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」と言われた。パウロは「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。 一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。」(Ⅰコリ12:4-11)と述べている。イエスは御心に従って各々に賜物と職務を与えられる。私たちは自らに与えられた職務を、イエスを仰ぎつつ忠実に果たしていこう。
2020/12/31(木) 担当 ラウジー満世師 ミカ書6:13-16 賛美 新聖歌366
神は遠くにいて自分たちの罪の生活には介入されないという観念的な信仰に生きていた人々に対して神は明確に滅びを宣言される。「滅ぼす」という言葉に続いて、具体的に何が起こるのかを示される。財産を保つことができず、働いても実りがない。いくらかの油や酒を生産できてもそれを自分たちで使うことはない。頭だけの理解で神が実生活から遠く離れていると思いながら不正を行い続けた人から実際に神の恵みが取り去られ、神の祝福が遠ざかるときに、彼らの生活は無益で無意味になる。生きる意味が取り去られすべてがむなしくなることは神の裁きの結果である。そこに至った原因は繰り返し警告されてきた罪の生活からの訣別を聞き入れず、アハブやオムリの時代からの罪(おそらく偶像礼拝であろう)にとどまり続けたことであった。
「本当に神は近くにいるのか?はっきりわからない神に従う必要はない」と考えて神を恐れる正しい生活を実践することを拒否し続けるならば、そこに神の裁きがもたらされる。主を侮るのではなく、共に歩んでくださる神を愛し、従うことを実践する生活を続けよう。
2021/1/1(金) 担当 高谷清師 詩 24:7-10 賛美 新聖歌 436
コロナ禍と虚偽、セルフファーストに明け暮れた2020年が去り、2021年が幕を開きました。コロナウイルスが猛威を振るい、感染拡大が止まらない中にあっても経済優先を掲げ、対策を渋る政府、100回以上の虚偽答弁を繰り返したとされる前総理、「真摯に反省」とは言うけれど質疑応答の態度を見るとそれも嘘でしょうと言いたくなる現実、おまけに「虚偽答弁に定義なし」とうそぶく官房長官、外に目を向ければ国家の危険をも顧みず権力にしがみつく指導者・・・絶望的な中にある世に対して神は「城門よ、頭を上げよ/とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる。栄光に輝く王とは誰か。強く雄々しい主、雄々しく戦われる主。」と語られる。鍋谷尭爾師は「イエスが門の外に立って、心の戸をたたいている姿を想像してみたいのです。イエスは栄光の王です。あなたの罪の贖いのために十字架にかかり、三日目によみがえり、完全な赦しをもって、やって来られる栄光の王です。しかし、心は固く閉ざされ、門は閉まったままです。門の内にいる人は、イエスを栄光の王として認めません。(中略)この閉まった戸はどうして上がるのでしょうか。それはパウロが言っているように、福音の使者からはじまるのです。「信じたことのない方を、どうして呼ぴ求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう」(ロマ10:14)。福音を伝える人は外から来て、見えざるイエスの代理者として戸をたたくのです。(中略)パウロが言っているように、人が主に向くなら、心のおおいは取り除かれ、鏡のように主の栄光も反映させながら、栄光から栄光へと主と同じかたちに姿を変えられてゆくことを確信しているのです(Ⅱコリント3:16-18)。(『詩篇を味わう』P196−197いのちのことば社 2005)と述べておられる。真実に福音を伝えることこそ、絶望の中に希望をもたらす唯一の道である。この年も信仰と聖霊に満たされて福音を伝えよう。
2021/1/2(土) 担当 高谷清師 ヨハ 21:24-25 賛美 新聖歌 361
最後にヨハネは「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。」と記す。本福音書はイエスの愛しておられた弟子によって記された、そして愛弟子を中心とする教会は本福音書が真実であることを愛弟子によって知っているのである。パウロは「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」(Ⅰテモ 3: 16)と述べている。この御言葉により、聖霊の光の中で聖書が神の言葉であり、信仰と生活の唯一の規範であることを知るのである。今日、「アフターコロナ」という言葉を多く耳にするようになった。コロナ感染症流行以前には是とされた事柄がコロナ感染症流行によって非とされ、その非とされた事柄のいくつかはコロナ感染症流行収束後も是とされることはないであろうというのである。このように、世における是非は時とともに変化する。しかし、神の言葉は時代を貫いて変わることなく、真実である。聖霊の助けにより不動のみ言葉に立って堅実な信仰生活を全うしょう。
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