≪デボーションの友≫2023/5/22-27

2023/5/22(月) 担当 高谷清師 使1:3-5  賛美 聖歌(総)604 聖歌 570

 私たちの罪のために十字架に架かり、死んで葬られ、復活されたイエスは「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」(ルカ24:45-48)と語られたイエスは

「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」と命じられた。そして「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」と命じられた。そして「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使1:8)と語った後、天に上げられた。

聖霊による洗礼は父なる神の約束であり、宣教の力である。

2023/5/23(火)担当 ラウジー満世師 創世記39:1-6 賛美 聖歌総合版635 聖歌597

 エジプトに連れて来られたヨセフは宮廷の役人ポティファルに仕えることとなった。今まで父の家で、兄弟の仲の誰よりも父の寵愛を受けて育ってきたヨセフが、遠く離れた地で主人という立場の人に仕えていくのは大変なことであっただろう。家族や慣れ親しんだ人々から引き離されて生きることは大変なことである。しかしヨセフがどこに行っても、かつてアブラハム、イサクと共におられた神が今ヨセフと共におられる。エジプトでの生活を語り始める39章の中で繰り返して主が共におられる事実が語られた(39:2, 3, 22, 23)。神は選ばれた人々に対して真実である。神の約束が変わることはない。ヨセフと共におられる神の祝福はヨセフに注がれ、さらにヨセフを通して周囲の人々に影響を及ぼす。たとえ周囲に人々が異邦人であっても、神の祝福がヨセフを通して広がっていく。

 神が共におられたヨセフのゆえにこのエジプト人の家は祝福された。祝福は富とヨセフ自身の見た目の美しさとして表れている。祝福はヨセフが傲慢になるためではなく、あくまで神の力が示されるためであった。

2023/5/24(水) 担当 高谷清師 使1:12-14  賛美 聖歌(総)229 聖歌 253

 主の命を受けた使徒たち、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダは都に入り、泊まっていた家の上の部屋に上がった。彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。

 ハバククは「定められた時のために/もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」(ハバ2:3-4)と述べている。神の約束は決して欺かれることはない。私たちは不信仰によって神の約束をないがしろにするのではなく、信仰によって熱心に待ち望もう。

2023/5/25(木)担当 ラウジー満世師 創世記39:7-19 賛美 聖歌総合版529 聖歌511

 ヨセフに与えられた神の祝福は人々を魅了し、人々の罪深い行動をも引き寄せる。ポティファルの妻はヨセフを誘惑する。彼が拒んだ後も隙を窺い、誘惑した。ヨセフは拒み続けたが彼女の手に残してきた持ち物を利用して濡れ衣を着せてしまう。最初に彼女がヨセフを誘惑した時、ヨセフは主人との信頼関係を裏切る行為はしないという理由を上げているが、より重要な理由がある。誘惑を受け入れるということは神に罪を犯すことであるがゆえにできないのである。故郷を遠く離れた何の守りもないエジプトで主人の信頼を得たのはただ神の祝福によることを良く知っており、祝福を受けた者としての責任をしっかりと理解していた。またその責任を負って罪から離れて生きることの大切さを知り、実行していた。

 神の祝福は素晴らしい。誰しも祝福を求める。忘れてはならないことは祝福を受ける人が立派であるわけではなく、祝福を与えられた人々には神に忠実に、神を畏れつつ歩むというさらなる責任が与えられるということである。神の祝福は私たちを一層へりくだらせるはずである。

2023/5/26(金) 担当 高谷清師 使2:1-13 賛美 聖歌(総)607 聖歌 573

 「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」と記されている。五旬祭の日はイスラエルの男子はみな主の前に出るべき大事な祭りの日であると定められていたので主の弟子たちも礼拝のために神殿に集まっていた。すると「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」父の約束された聖霊が弟子たちの上に注がれたのである。五旬節の日の礼拝のために神殿に集まっていた、天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人や他国に住む巡礼者たちは、主の弟子たちによって自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。話しているのは皆ガリラヤの人であったからである。人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。そこでぺトロは立ち上がって「今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。」と語ってこの出来事がヨエルの預言の成就であることを、即ち、神の御業であることを明らかにするのである。

 イエスは「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。(ヨハ 3:8)」と語っておられる。聖霊は目に見えないお方である。しかし、確実に働いておられる。

2023/5/27(土) 担当 高谷清師 使4:1-14 賛美 聖歌(総)606 聖歌 572  この箇所にはペトロとヨハネが民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えていたことについて議会で取り調べを受ける場面が記されている。大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族を前にしてぺトロは聖霊に満たされて「民の議員、また長老の方々、今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、/『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、/隅の親石となった石』/です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」と語った。議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚いた。そこには大祭司カイアファの屋敷におけるイエスの裁判における、一人の女中の言葉を恐れて三度イエスを否認したペトロの面影はない。聖霊は私たちの信仰に確信を与え、強め主を証しする力を与える。聖霊による洗礼こそ、宣教の力である。