2021/9/13-18

 2021/9/13(月) 担当 高谷清師 コロ4:2-6 賛美 新聖歌 284

 新共同訳聖書はこの箇所に「勧めの言葉」という表題を付している。この箇所について青木敬和氏は「この手紙にしばしば登場する「祈り」と「感謝」の勧めが、最終部にも、念を押すようにくり返し語られる。そして「祈れ、目をさませ、私のためにも祈れ、今を生かせ、外部の人に賢く行動せよ、塩で味つけられた、やさしい言葉を使え、個々の人人への即応性を身につけよ・・・・・」と一語一語、カンフル注射を打って、教会の血行を促進させ、活性化を持続させようと思いをこめる著者の息づかいが、言葉の背後から伝わってくる。」(説教者のための聖書講解No4265日本基督教団出版局1983)と述べておられる。神を愛し、教会を愛し、そのために自分の全てを注ぎ込んだパウロの心を想い、この奨めの言葉を心を込めて読んでいきたい。

パウロは「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい」と語る。パウロが「目を覚まして」という時、ゲッセマネにおけるイエス様の最後の祈りにおける弟子たちを想い起す。十字架を前にしたイエスの切実な祈りに際し「誘惑に陥らないように祈りなさい」というイエスの命令にもかかわらず、彼らは眠ってしまったのである。「目を覚ます」とは、単に目覚めているだけではなく、すべての雑念を排して心を神に集中することである。

 

2021/9/14(火) 担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書2:5-9 賛美 新聖歌339

 第三の幻である。測り縄は建築に使われる道具であり、正確に計測するために使われる。建築には正確な測量が欠かせない。いよいよ神殿再建にとりかかろうとする人に示されたメッセージは、今まさに民が再建しようとしている神殿と城壁ではなく、さらに大きな都が備えられるということであった。エルサレムが城壁のない町となると言われるだけでは完全に荒廃するかと驚くが、そうではない。人と家畜にあふれて、あまりにも大きくなるため、かつての城壁は必要がなくなる。神ご自身が火の城壁としてこの民を守ってくださる。エルサレムの町はすさまじく拡大する。

 現実に見ている荒れ果てた神殿と壊れた城壁からは想像のつかない宣言が、幻を示しつつ明確に語られる。意気消沈した人々が明るい未来など見ることが出来ない状況でも、神は幻を通して備えておられる将来を示し、力を与えて下さる。目に見えるものではなく、見えない神の臨在と導きに信頼しよう。

 

2021/9/15(水) 担当 高谷清師 コロ4:2-6 新賛美 新聖歌 284

 パウロは「ひたすら祈りなさい」と語る。この箇所についてシュラッタ―は「私たちが祈りにうみ疲れることに対して、パウロは戦っている。祈りの実りは、目に見える明確さで示されないため、私たちは容易に、無造作に、祈りを捨ててしまうようになる。パウロはそれと違った判断をする。持続してなされる祈りは、パウロが教会を導こうとする目標である。彼はこの祈りを高く評価し、そのため教会員に、幾夜も祈りについやすことをすすめる」{シュラッター 『新約聖書講解10 P66新教出版社1977)と述べている。私たちが何事であれ、行動しょうとする時、初めに祈る。しかし、私たちの意識の中には「祈りよりも行動」という思いが先行し、その祈りは形式的なものに陥り、神のみ声を聞くことをないがしろにしていないだろうか。祈りとは自分の思いを訴えるばかりでなく、神のみ声を聞くことである。

 

2021/9/16(木)担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書2:10-13 賛美 新聖歌165

 幻に続いて主が言われた。かつて北の国の脅威によって主はユダの民を吹き散らしてエルサレムを滅ぼされた。しかし今主の力強い介入により、かつての略奪者の立場は逆転し、この国の力は奪われる。神がご自分の民を守り、エルサレムに再び集められる。人間の力によっては起こり得ないこの逆転は神の力を世に示すものであり、これらを見た人々は主の栄光を目の当たりにする。

 捕囚の時代に荒れ果てた神殿を見ながら苦しんでいる民に対して、神はやがてご自身が立ち上がり、回復を与えると語られる。それに伴い世界の人々が神の栄光を見ると言われる。主を信じる人々が祝福を受けるのはただその人が喜ぶためだけではなく、このことを通して主の栄光が世界中に示され、人々が神を認めるためである。主の栄光が教会を通してあらわされることを求めよう。

 

2021/9/17(金) 担当 高谷清師 詩 63:7-9  賛美 新聖歌 201

 詩人は「床に就くときにも御名を唱え/あなたへの祈りを口ずさんで夜を過ごします。」と詠う。彼はかつて神から離れた生の中で「神よ、あなたはわたしの神。/わたしはあなたを捜し求め/わたしの魂はあなたを渇き求めます。あなたを待って、わたしのからだは/乾ききった大地のように衰え/水のない地のように渇き果てています。」と訴えた。神と出会い、神を仰ぎ見、その力と栄光を仰ぎ見、その恵みと慈しみを知った詩人は「床に就くときにも御名を唱え/あなたへの祈りを口ずさんで夜を過ごします。」と詠う。パウロはキリストを知った喜びを「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。(フィリ3:7-11)」と語っている。キリストを知った魂は、キリストを求め続ける。世のものでは決して満足できない。パウロがキリストと出会わず、キリストを知らなかったなら、彼は世の権力を手にし、栄華に包まれ、世の安楽と栄誉を手にしたであろう。しかし、キリストを知った故に苦難の中に在って殉教の死を遂げた。神を知り、神と共に歩む者の栄光は世には無く、ただ神の御手の中にのみある。

 

2021/9/18(土) 担当 高谷清師 コロ4:2-6 賛美 新聖歌 281

 パウロは「感謝を込めて祈りなさい」と語る。青木敬和氏は「更に「感謝をもってする祈り」の要求に関してはどうであろう。H・ティーリケの『神の沈黙――福音における現代人のつまずき』(鈴木皐訳、ヨルダン社〉に、第二次大戦下、ドイツの町を壊滅させた大空襲のあと、幸い死をまぬがれた一人のキリスト者が「神様のことなど一瞬も考えなかったのはなぜだろう」という疑問を提出するくだりがある〈25ページ〉。これに対するティーリケの文章が意味深い。

「怖れの時の祈りは、実際には、神との対話ではなくて、危険との対話であることが極めて多いのです。

わたしは、危険のただ中で祈っている時には、まさに、自分自身に固執していることに気がついたことがあります。なぜならば、自分の心配や自分の怖れの支配が自分を束縛し、神の顔を正しく仰ぎ見ようとはしないからでした。すると祈りは、自分の胸苦しさのうめき以上のものではなくなって、ひどく驚いたときに、『ああ神よ!』と心ならずも叫ぶようなものです。

あるいは、かなりの年の大人でも梯子から落ちそうになったときに、ひどく驚いて、『お母さん!』と言うようなもので、その時には、神や母親のことを本気で考えているのではなくて、折れた梯子の段や地面に体がぶつかることを考えているにすぎないのです」(27-28ページ)。

まことに辛辣かつ鋭利であるが、的確に我々の祈りの見落としている点をついている。」(説教者のための聖書講解No4266日本基督教団出版局1983)と述べておられる。

自分の祈りを吟味しょう。