2021/9/27-10/2
- 2021.09.27
- ディボーションの友
2021/9/27(月) 担当 高谷清師 コロ4:6 賛美 新聖歌 222
パウロは「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。」と語る。この箇所について青木敬和師は
「コロサイの教会の人々にむかつて、「いつも、塩で味つけられた、やさしい言葉を使いなさい」と勧めるパウロの言葉に、さまざまな人間のぶち当たる場面を、くぐりぬけくぐりぬけ、イエスの愛によって再生し形成された巨大な人のこまやかな心をのぞく思いがする。
人間は、一つの言葉によって死にもし生きもする。悲哀のどん底で打ちのめされ、二度と立ち上がれない人が、一つの言葉に出会い、その言葉で生きられるようになった例をたくさん知っている。かつて椎名麟三が色紙に「言葉のいのちは愛である」と書いていたが「塩で味つけられ、愛を内包した言葉」に人は飢えている。愛のない無味乾燥な「音響」にすぎない言葉の氾濫する世の只中においてはなお更である。「塩で味つけられた、愛らしい言葉を」と勧めるパウロ自身、これをコロサイの人々に勧める以前、どれだけ多くそれを人々に与え、人々を慰め、生かし、はげましてきたことか。
パウロが、コリントで、テサロニケの信徒団に書いた(これはパウロの最古の手紙であるが〉手紙など、文字どおり、相手の心の中に自己の最も大切なものを投入し、相手を愛し、認め、最高の受容を示した父のような印象を与える。
「あなたがたの間で、ちょうど母がその子供を育てるように、やさしくふるまった。このように、あなたがたを慕わしく思っていたので、ただ神の福音ばかりではなく、自分のいのちまでもあなたがたに与えたいと願ったほどに、あなたがたを愛したのである」〈?テサロニケ2:7-8〉。
はげしい一日の労働のあと(愛する者に負担をかけまいと日夜労働していた)、夕刻、自分の疲労をかえりみず、一途に、魂に慰めと希望を与えようと生きる、ずっしりと重く、大きい愛の使者の姿を見る思いがする。「塩で味つけられた、やさしい言葉を」と勧める前に、そう生き抜き、生活された裏付けのある言葉なのである。
体ごと、心ごと、全人格で、相手とつき合う、確実な関係づくりが、このようにして出きあがっていく。」(説教者のための聖書講解No43P69日本基督教団出版局1983)
と述べておられる。
一途に神を愛し魂を愛して仕えていったパウロの姿に深い感動を覚える。今、宣教、宣教と掛け声は大きいがその中に一途な神と人への愛が感じ取れるだろうか。教勢拡大、自己愛ばかりが目立たないか。魂は何よりも真実の愛、アガペーに敏感に反応する。徹底した検証と悔い改めが求められる。
2021/9/28(火) 担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書3:8-10 賛美 新聖歌302
ゼカリヤは祭司たちと共にいる大祭司ヨシュアに告げる。彼らこそがしるしとなる。将来、神の僕である若枝が来る。それは誰で、いつ、何のために来るのかは明示されないままに一つの石が差し出される。これはおそらく大祭司のターバンにつけられたものと関わるものであろう。そこには神ご自身が碑文を刻まれるが、それが起こった日に地の罪が取り除かれるという。ゼカリヤは人々の罪が清められる必要があると理解していた。その清めは神ご自身が整え、完成される。当時の民にも罪の清めが必要であったが、必要を知り、整え、与えて下さるのは神ご自身である。それがなされる救済の時に愛に満ちた共同体の姿が見られるようになる。彼らは互いに呼びかけて互いに受け入れあう。
ゼカリヤが幻を用いてこれを語る理由は、ゼカリヤが伝えようとした罪の清めと赦しはこの時代に限定されるものではなく、時を越えてあらゆる時代のあらゆる人々に聞かれるべきメッセージだからである。私たちも清めを必要としており、それをしてくださるのは神である。
2021/9/29(水) 担当 高谷清師 コロ4:6: 新賛美 新聖歌 216
パウロは「そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう。」と語る。この箇所について青木敬和師は
「体ごと、心ごと、人格ごとで築き上げられた関係では、感性は容易に相手のニードが何であるかをキャッチする。共感的に理解し、相手を受容し得るのである。この関係が不成立の場合には、「ひとりびとりに対してどう答えるべきか」は、わかりようがない。相手の発信を受ける受信機がないからである。
人間はパウロの言うように、ひとりびとり、その人独自の特別な状況の中に生きている。従って、言葉は、そのひとりびとりの個々人の必要に適応するものでなくてはならない。その人の、今のニードは何かを的確に知るのは、話しかける人間の他者理解の深さであり、感性の鋭敏さであろう。聞く相手の生活状況が見定められない限り、言葉は空を打つのである。」(説教者のための聖書講解No43P70日本基督教団出版局1983)
と述べておられる。イエスは「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」問う人に対して「彼を見つめ、慈しんで」語られた。人格ごとで築き上げられる人間関係は、私たちが愛と慈しみをもって対するときはじめて形成される。
2021/9/30(木)担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書4:1-14 賛美 新聖歌284
ゼカリヤが目を覚ますときに新たな幻を見る。大変明るい燭台とその左右に一本ずつ配置されたオリーブの木である。七つのともしびは神の目である。燭台が神をあらわし、その左右に立つのは神が油注がれた二人である大祭司ヨシュアと帰還の民を導いたゼルバベルである。この霊的指導者と政治的指導者は同等の立場で主に仕え、神から権威を託されて民を導く。ところで、この幻が示された時にはまだゼルバベルには現実には油が注がれていなかった。つまり、この幻はまだ見ぬ先のことをゼカリヤを通して民に示すものであった。
イスラエルの民が捕囚の地から帰り、再出発をしようとする時代、まだ神殿すら再建されておらず将来を見通すことが出来なかった。しかし、その最中に神はご自身が民と共におられて実生活面と霊的側面を導く二人の指導者をすでに備えておられた。神は人々が自覚する前から民の必要をご存じであり、備え、さらにそれを約束してくださる。常に神の臨在が信じる者と共にあることを感謝しよう。
2021/10/1(金) 担当 高谷清師 詩 63: 12 賛美 新聖歌 398
詩人は「神によって、王は喜び祝い/誓いを立てた者は誇りますように。偽って語る口は、必ず閉ざされますように」と詠う。この箇所についてA. ヴァイザーは
「ヤハウェへの忠信の告白と、王や神の民が神を喜ぶことが、「偽りを言う者」の唇はふさがれる事実と連動してはっきり指摘されているが、それは個人的な敵意による虚偽の中傷を問題としているのではなく、むしろ敵による信仰の根本的な真理の否認を、あるいはさらにヤハウェ信仰の否認そのものを取りあげていると推察させる(「偽りの偶像」アモ二4を参照)。このようにして敵の運命への詩人の宗教的な関心が説明される。それは彼をヤハウェに忠実な共同体と彼らの王に結びつけるものである。というのも、それは共同体と、また現に危険に瀕している彼らの信仰とを純粋に保つことになるからである。これらを保つベく、共同体全体もその中の各人も共に神の前に責任を負っているのである。」『ATD旧約聖書註解詩篇中P145』ATD・NTD聖書註解刊行会1985)。
と述べている。
聖書は神は全知全能にして義なるお方であり、愛なるお方であり、全知の支配者、統治者であると教えている。しかし、神の民は常に迫害にさらされ、苦難の歩みを強いられてきた。今もこの地上においては神の民の苦難は続いている。現在の日本においても信仰の根本的な真理を否認する者が圧倒的に多く、教会の宣教は一顧だにされない状態である。しかし、御言葉は真理である。神の恵みによって神の民とされた私たちは終わりの日までその信仰を全うしょう。
2021/10/2(土) 担当 高谷清師 コロ4:2-6 賛美 新聖歌 396
本書簡の最後の段落4:7-18には「結びの言葉」という表題が付されている。パウロは他の書簡でもするように、個人的消息やいろんな人々からの挨拶、また祈りの祝祷をもって本書簡を終えている。7-9節にはこの手紙を託する二人について記す。先ず、ティキコについて、彼は「主に結ばれた、愛する兄弟、忠実に仕える者、仲間の僕」であった。エフェソの信徒への手紙においても「彼は主に結ばれた、愛する兄弟であり、忠実に仕える者です。(エフェ 6:21)」と記している。彼はアジア州出身(使 20:4)であり、パウロの同労者となった。彼らは「愛する兄弟、忠実に仕える者、仲間の僕」であったが、それは単に意気投合したからだけではなく、「主に結ばれた」からであった。
世には様々な人間関係があるが、人間感情だけを基礎としたものはやがて破たんに至る。「主に結ばれた」ことを基礎とする関係こそ、信頼すべき関係である。
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