2022/2/14-19
- 2022.02.14
- ディボーションの友
2022/2/14(月) 担当 高谷清師 Ⅰテモ2:9-10 賛美 新聖歌 378
パウロは、神を敬うと公言する婦人にふさわしいこととして「つつましい身なりをし、慎みと貞淑をもって身を飾るべきこと」を挙げ、その結果としてあふれ出る善い業で身を飾るべきことを教える。イエスは律法学者たちとファリサイ派の人々に対して「あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。」(マタ 23:27)と教えられた。内に持つ罪、汚れをそのままにして、髪を編んだり、金や真珠や高価な着物を身に着けたり―外側を飾り立てても、神の目には清くは映らない。神のみ前における美しさ、それは罪を告白し、悔い改め、イエスの血潮を仰いで罪の赦しを受け、御霊の実を結ぶことによって得られる。それは婦人だけではなく、全ての人に言えることである。
2022/2/15(火) 担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書14:17-19 賛美 新聖歌170
神が全地の主であり、イスラエルの民だけではなく世界中の人々を救うお方であるがゆえに、神は地上の諸族に対して礼拝をささげることを求められる。真の神への礼拝を拒む者には作物の実りをもたらす雨という祝福は与えられない。エジプトの民は雨が降らなくてもナイル川の灌漑によって水が確保できるため、雨という祝福がなくても問題はないとして、真の神への礼拝を拒み続けるかもしれない。しかし彼らは疫病に見舞われるであろうとの罰が与えられる。
神が地上のすべての人に公平な裁きを与え、救いを与え得るお方であるということは、まったく例外なく地上のすべての人々に真の礼拝をささげることを求められるということである。今も変わることのない神は造られたすべての人々の主であり、それゆえにすべての人々に礼拝をささげるよう求められる。私たちの回りの人々が真の神に出会い、正しい礼拝をささげられるように祈ろう。
2022/2/16(水) 担当 高谷清師 Ⅰテモ2:11-14 新賛美 新聖歌
パウロは「婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ、静かにしているべきです。」と語る。これは当時の教会の情況に深くかかわる。ユダヤ教の会堂では、女性には聴くことしか許されなかった。初代教会においては預言の賜物をさずかっている女性たちが、礼拝で語るという慣習が出来上がっていた。(Iコリ11:5)。しかし、彼女たちが教会外で語り始めた時、大きな混乱を招いた。パウロが「彼女たちは家から家へと回り歩くうちに怠け癖がつき、更に、ただ怠けるだけでなく、おしゃべりで詮索好きになり、話してはならないことまで話しだします(?テモ 5:13)。」このような状況に乗じ、異端の教師たちが入り込んできたのである。
信徒による伝道、それは大切な働きである。この場合、婦人の働きに依存するのが大部分となる。しかしそれは教会の制御のもとに行われなければならない。めいめいが勝手に行うなら、健全な教えから逸脱し、混乱と分派を招く。
2022/2/17(木)担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書14:20-21 賛美 新聖歌154
終わりの時、主の日には全世界から主を礼拝し、犠牲をささげるために民がエルサレムに集まってくる。多くの人々が押し寄せるため、いけにえのために必要な鍋を入手する方法を尋ねる人々に対しては、馬具に至るまで、鍋をも含めてすべてのものが聖別され、神の目に適う物として礼拝に用いることが出来るようになると語られる。すべてが神の御心によって整えられ、聖別され、世界中から押し寄せて来る、真の神を礼拝しようとするすべての人々が受け入れられ、礼拝をささげ、神を喜ぶ。
今もなお私たちはすべての民が真の神に膝をかがめて礼拝をささげる日を待ち望んでいる。主の前に一人でも多くの人が真の霊的な礼拝をささげることが出来るように、とりなして祈りつつ、み言葉を伝えよう。
2022/2/18(金) 担当 高谷清師 詩 66:8-9 賛美 聖歌 91
詩人は「諸国の民よ、我らの神を祝し/賛美の歌声を響かせよ。神は我らの魂に命を得させてくださる。我らの足がよろめくのを許されない。」と詠う。「諸国の民よ」という言葉についてロジャーソン・マッケイは「ここでは多分イスラエルの内外を問わず主なる神を認める人びとをさすものであろう。(ケンブリッジ旧約聖書註解13詩篇1−72P322)新教出版社1984)と述べている。イザヤは「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。」(イザ42:1-4)と語っている。いつの時代に在っても神は信じる者にとって守り手であり、導き手であり、命であり、希望であり、それ故、賛美を献げるべき唯一のお方である。
2022/2/19(土) 担当 高谷清師 マタイ17:14-21 賛美 新聖歌 196
この箇所にはてんかんの持病に苦しむ息子を持つある人がその息子を連れて弟子たちのもとを訪れ、癒しを願った。しかし、弟子たちは癒すことが出来なかった。そのため、この人はその息子をイエスのもとに連れて来て癒しを願った。イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、そのとき子供はいやされた。弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねるとイエスは「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」(†底本に節が欠落 異本訳)しかし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行かない。」とお答えになった。
世界各地においてリヴァイバルの御業が伝えられる中、日本においてもその必要性が叫ばれ、集会において祈りが献げられる。しかし、個人の日々の祈りにおいてこの祈りがどれだけ献げられているだろうか。現在、北京オリンピックが開かれており、各選手の素晴らしい演技が披露されており、優勝者は素晴らしい栄誉を受けている。その演技は束の間であるが、その背後には長い年月に亘るハードな練習が隠されている。リヴァイバルも掛け声ではなく、背後に長く深い祈りが求められる。絶え間なく祈り続けよう
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