≪デボーションの友≫2022/5/9-14

2022/5/9(月) 担当 高谷清師 ガラ 1:10 賛美 聖歌総合版 490 聖歌 473

パウロは「今私は人に取り入ろうとろうとしているのでしょうか、それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし、今なお人の歓心を買おうとしているなら、私はキリストの僕ではありません。」と語る。伝道者は一人でも多くの人々に教会に来てほしい、洗礼を受けてほしいと願う。自らが牧会する教会に多くの人が集い、受洗者が多く与えられることはその伝道者が成功者であることの証となるからでる。そこに人の歓心を買おうとして人に取り入ろうとする隙が生じる。人の歓心を買おうとして人に取り入ろうとすることは自らの肉に仕える道であって神に仕える道ではない。イエスは「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を疎んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(ルカ 16:13)と教えておられる。また、パウロは「誰も健全な教えを聞こうとしない時が来ます。その時、人々は耳触りのよい話を聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話へとそれて行くようになります。しかしあなたは、何事にも身を慎み、苦しみに耐え、福音宣教者の働きをなし、自分の務めを全うしなさい。」(Ⅱテモ 4:3-5)と命じている。自らを空しくしてキリストに仕えよう。

2022/5/10(火) 担当 ラウジー満世師 創世記3:1-8  賛美 聖歌総合版479 聖歌466

 世界と人間の創造に引き続いてすぐに私たちが聞くのは人間を誘惑する巧みな言葉である。誘惑者として蛇が現れる。この蛇は言葉巧みに賢くエバを誘惑する。両者の会話は神が何を禁じられたかという点から始まる。「神は本当に、園のどの木からも取って食べてはいけないと言ったのか?」との問いは巧妙な、悪知恵を働かせた聞き方である。エバは最初は注意深く答えているが、会話が進んで行くにつれて神の命令は何か、というところから次第に軸がずれていく。気付かぬうちに「神の禁じられたことには理屈を言わず、神の権威を受け入れて従わなければならないのだ」という姿勢が曖昧になり、気が付けば神の言葉に背いてしまう。

 誘惑は最初から明確に躓きとして現れることは少ない。いかにも無害に見せかけながら、気が付けば私たちの神への信頼と従順が損なわれているという場所へと巧妙に導いていく。正しい知恵は神の権威のもとでこそ用いられる。神の言葉から歩みを逸れさせる誘いに警戒し、神の権威と言葉を第一としよう

2022/5/11(水) 担当 高谷清師 ガラ 1:11-12 聖歌 502  新聖歌 389

 パウロの宣教によって成立したガラテヤの教会にユダヤ主義者が入り込んでパウロの使徒職を否定し、パウロの宣べ伝えた真実の福音を否定し、ほかの福音を宣べ伝え、ガラテヤの人々を真実の福音から反らそうとしていた。それによってガラテヤの教会に混乱が生じていた。そのような状況を前にしてパウロは「きょうだいたち、どうか知っておいてほしい。私が告げ知らせた福音は人によるものではありません。なぜならこの私は、その福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、実にイエス・キリストの啓示を通して受けたからです。」と語っている。この次第については使徒言行録9:1-19に詳しく記されている。パウロ(サウロ)は由緒正しいユダヤ教徒としてその信仰に熱心であり、それ故にキリスト迫害者であった。彼がダマスコの聖徒たちにも迫害の手を伸ばそうとして道を急いでいた時、神は彼を捕らえ、真理を啓示し、宣教者として召し、立てられたのである。神は反抗する者には肉欲のまま滅びの道を歩むに任せられるが、真理を求める者には常に誤りを正し、真理に導いてくださる。常に祈り、聖霊の導きを求め、それによって歩もう。

2022/5/12(木)担当 ラウジー満世師 創世記3:1-24  賛美 聖歌総合版629 聖歌591

 あらゆる被造物の中で最も賢い蛇はエバに「神のように知恵ある者となれる」と誘惑する。なぜ人は賢くなることを求めるのか?知恵は世界を管理し、治めるために不可欠な資質である。ソロモンは王として治めるときに神に知恵を求めた。知恵を持たなければ世界を治め、コントロールすることは難しい。ソロモンの願いは神の御心に適った。しかしエバが神のように知恵ある者となりたいという願いの裏には被造物の王、神になりたいという思いが潜んでいたのではないだろうか。

 神に対する謙遜を失い、神と対等に張り合い、神よりも上に立とうとする野心は私たちと神との関係を根本から破壊する。実際にエバとアダムも神様との親しい関係を失い、今や身を隠さなければならなくなった。知恵は神に与えられた祝福である。しかしそれを求めるときにはソロモンのように正しい心で求め、正しい用い方をする責任が伴う。神の権威を認め、少しでも神の言葉から私たちの生き方をそらすような誘惑は、霊の目をもってしっかりと見抜き、正しく対応しよう。

2022/5/13(金) 担当 高谷清師 詩 68:7  賛美 聖歌総合版 653 聖歌 608

 詩人は「神は孤独な人を家に住ませ/捕らわれ人を幸福へと導き出される。/背く者は焼けつく地に住まなければならない。」と詠う。神は異邦人の支配するエジプトに在って奴隷とされ、苦しむご自身の民を力強い愛の御手をもって導き出された。それは父と三つのあふれる約束の地に導きいれるためであった。その旅路において民は様々な苦難に直面した。そのたびに神は海の水を分けて乾いた地とし、岩から水を溢れ出させ、マナを降らせ、肉を与えられた。主は偵察隊によって約束の地を民に示し、その地に登って行くように命じられた。しかし民はその命令に従うことを拒んだ。そのため、彼らは40年間荒野をさまよい、だれ一人、約束の地を見ることはできなかった。

 神はサタンの支配する世に在って絶望に苦しむ私たちのためにご自身の一人子を遣わし、このお方に私たちの全ての罪を負わせ、十字架に架からせ、それによってすべての罪を贖い、救いの道を開き、永遠の御国へと招いていてくださる。しかし、この招きに従う者は少ない。ヨハネは「御子を信じる人は永遠の命を得る。しかし、御子に従わない者は、命を見ることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハ 3:36)と語っている。神の命令を拒み、自らに滅びを招いたイスラエル人の轍を踏まないように歩もう。

2022/5/14(土) 担当 高谷清師 マタ 6:10 賛美 聖歌総合版 277 聖歌 296  キリストが教えられた祈りの第二は「み国を来らせたまえ」である。ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたのに対してイエスは「神の国は、観察できるようなしかたでは来ない。『ここにある』とか、『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの中にあるからだ。」(ルカ 17:20-21)とお答えになっておられる。「神の国」とは神の支配が確立されたところである。それは第一には信徒が神に完全に従順になることであり、それは信仰によって実現する。第二には宣教によって未だ神を知らない人々に福音を告げ知らせ、信仰の従順に導くことによって実現される。日々祈りにより、聖霊の助けを得て自らの信仰を健全に保ち、新しい力に満たされて福音を伝えていこう