≪デボーションの友≫2022/5/16-21
- 2022.05.15
- ディボーションの友
2022/5/16(月) 担当 高谷清師 ガラ 1:13-20 賛美 聖歌(総)414 聖歌414
パウロは「私がかつてユダヤ教徒としてどのように振る舞っていたかは、あなたがたが聞いているとおりです。」と語る。彼は神の教会を徹底的に迫害し、破壊しようとしていたのである。エルサレムの地においてその目的をおおむね達成したと考えたパウロはダマスコにあるキリストの教会にも迫害の手を伸ばすべく、ダマスコの諸会堂宛ての大祭司の手紙を携えて道を急ぎ、ダマスコの郊外に差し掛かった時、主は彼にご自身を顕しご自身こそ主であられることを示し、ご自身の使徒としてパウロを召されたのである。この召しを受けたパウロは、人に相談することはせず、自分よりも先に使徒となった人たちがいるエルサレムへ上ることもせず、直ちにアラビアに出て行ったのである。
私たちが世において転職しようとする時まず関係する人々―妻子等ーに相談をする。転職が決定すると関係者に挨拶周りをする。しかし、神による召しとそれへの応答の場合には違う。人が召しを受けた時、まず神の御前にひざまずいて祈る。御霊の導きの中で召しに対する確信が与えられた時、応答するのである。不信者からは様々な意見が出るであろう。しかし妥協の余地はない。神のみ旨だからである。救いの場合も同じである。神の御心を確信した時には信仰をもって従おう。
2022/5/17(火) 担当 ラウジー満世師 創世記3:8-19 賛美 聖歌(総)516 聖歌498
神の命令に背いてそそのかされるままに木の実を食べたアダムとエバは神が近くに歩まれる時に自分の意志で隠れた。隠れなければならないことを理解している二人に向かって神は個人的に話しかけられた。すべてをご存じのお方が敢えてアダムとエバそれぞれと直接対話された。神は彼らにしっかりとご自身と向き合い、責任を認める機会を与えられた。逃げ場を失った二人はそれぞれ神に答えるが、自分で罪と向き合い、悔い改めようとはしなかった。その結果、神はそれぞれに罪の結果として負うべき罰を与えられた。
蛇に対しては神は言葉をかけておられないが人間には向き合い、対話された。私たちは神の前で神の言葉を聞き、従い、神の御声に応答する存在として生かされている。今日神は私たちに何を語り掛け、どのような対話を求め、導いておられるだろうか。静まって主を知ろう。
2022/5/18(水) 担当 高谷清師 ガラ 1:13-20 聖歌(総)529 聖歌 511
パウロは「キリストにあるユダヤの諸教会には、顔を知られていませんでした。ただ彼らは、「かつて我々を迫害した者が、当時は滅ぼそうとしていた信仰を、今は告げ知らせている」と聞いて、私のことで神を崇めていました。」と記している。ルカはエルサレムに登ったパウロについて「サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。しかしバルナバは、サウロを引き受けて、使徒たちのところへ連れて行き、彼が旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって堂々と宣教した次第を説明した。それで、サウロはエルサレムで弟子たちと共にいて自由に出入りし、主の名によって堂々と宣教した。」(使9:26-28)と記している。パウロ(サウロ)は熱心にユダヤ教に仕えるキリストの教会への迫害者からキリストの宣教者へと一瞬にして変えられたのである。その事情を知らないキリスト者からは警戒の目をもって見られた。しかし、パウロの変化は真実であった。パウロがユダヤ教に熱心であったのは神に対する熱心からであって私心からー社会的主流に属することによって地位、名誉を得る下心等―によるのではなかった。神は真実にご自身に仕える者を常に正しい道に導いてくださる。いかなる時にも世の思惑ではなく、真実をもって仕えよう。
2022/5/19(木)担当 ラウジー満世師 創世記3:20-24 賛美 聖歌総合版459 聖歌718
神はアダムと女との対話の後、二人を園から追い出された。大変厳しい対応である。しかしこれを通して、二人が神の命令に背き、神が直接向き合う機会を与えて下さったにもかかわらず悔い改めることなく、神をも責めたという行為の結果に責任を持たなければならないということをはっきりと教えられる。神との親しい関係を壊したことを知りながらなお悔い改めないならば、私たちは神の権威においてその親しい交わりから退けられることも主の御心に従って受けなければならない。しかし同時にこの出来事を通して神の二人への深い憐れみが尽きないことも分かる。裸であると知っていちじくの葉で体を覆っても役に立たなかったであろう。しかし神はこの不正な方法で知恵を得た二人に対しても体が覆えるように丈夫な衣服を与え、さらにそれぞれの命の終わりの時と共に母となり、命を紡いでいく祝福をもこの最中に与えて下さった。
罪には罰が伴う。神の前に生きるとは責任を負うことである。その責任を負いつつ生きるときにもなお神の慈しみと守りが伴っている。大きな愛で導いてくださる神に向き合い、日々賛美と悔い改めの祈りをささげよう。
2022/5/20(金) 担当 高谷清師 詩 68:8-9 賛美 聖歌総合版 643 聖歌 605
詩人は「あなたが民に先立って出て/荒れ果てた地を行進されたとき/地は震え、天は雨を滴らせた/神、シナイの神の前に/神、イスラエルの神の前に。」と詠う。奴隷の地エジプトからご自身の民を導き出された主は、シナイにおいて民の前に立たれた。「シナイ山は山全体が煙に包まれていた。主が火の中を通って、山の上に降り立たれたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。」(出 19:18)と記されている。またイスラエル人は罪を犯したためカナンの王ヤビンに服していた。ヤビンの将軍は、ハロシェト・ハゴイムに住んでいたシセラであった。ヤビンは鉄の戦車九百台を有し、二十年にわたってイスラエルの人々を力ずくで押さえつけたので、イスラエルの人々は主を叫び求めた。(士4:3)。主はこの頃イスラエルを治めていたデボラを用いてイスラエルを解放された。主は天地宇宙において唯一のお方であり至高の権威者であり、愛のお方であられる。御子イエスは「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。」(マタ7:7-8)と教えておられる。
2022/5/21(土) 担当 高谷清師 マタ 6:10 賛美 聖歌総合版 201 聖歌 232 主が弟子たちに教えられた祈りの第三は「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りであった。ヨハネは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハ 3:16-17)と述べている。またぺトロは「ある人たちは遅いと思っていますが、主は約束を遅らせているのではありません。一人も滅びないで、すべての人が悔い改めるように望み、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(Ⅱペト3:9)と記している。神の御心の第一は一人も滅びないで永遠の命を得るためである。そのために神は最愛の独り子を世に遣わし、十字架に架けて救いの道を開いてくださったのである。この祈りを献げる私たちは魂の救いのために祈り続けよう。救いの言葉を伝え続けよう。
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