≪デボーションの友≫2022/11/7-12
- 2022.11.07
- ディボーションの友
2022/11/7(月) 担当 高谷清師 ガラ 4:1-7 聖歌(総)462 聖歌 450
「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。」と語ったパウロは、続いて「それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」と語る。イザヤは「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザ 53:5)と記している。実に、神は御独り子を律法の下に生まれた者としてお遣わしになり、このお方に世の全ての罪を負わせ、十字架に架からせ、血を流させ、その血によって私たちを律法の支配から贖い出してくださったのである。それはわたしたちを神の子となさるためであった。「子」それは宝であり、存在そのものが喜びである。長女が2歳のころ、一瞬、その姿が見えなくなった。私たちは心配になった。しばらくすると歌を歌いながら帰ってくる姿を発見して心配は喜びに変わった。神においてそのような者とされていることを感謝しょう。
2022/11/8(火)担当 ラウジー満世師 創世記21:1-8 賛美 聖歌(総)446 聖歌444
アブラハムとサラが長い年月待ち続けた二人の子どもに関する神の約束がここで成就する。子どもの誕生を告げるこの短い聖句の中で何度も「約束」という言葉が使われる。それは主の約束であり、神の約束である。アブラハムが突然神に召し出されて以来、二人にとっては長い年月であり、年老いた二人にはしばしばこの約束を固く信じることが出来ない苦しみを経験した。しかし子は生まれた。それは主なる神の確かな約束の成就であり、神が約束されていたまさにその時期に、神の言葉の通りに実現した。
サラとアブラハムのように、私たちはしばしば神の約束と神の言葉を信じることに葛藤を覚える。しかし聖書が何度も語るように、神の約束は必ず神のご計画の時に、その通りに実現する。約束された神ご自身が真実であり、力あるお方だからである。このお方が私たちと今日も共に歩んでくださることを確認し、主に望みを置こう。
2022/11/9(水) 担当 高谷清師 ガラ 4:1-7 聖歌(総)643 聖歌 605
続いてパウロは「あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。」と語る。御子を救い主として信じ受け入れた者に対して神は「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を送ってくださったのである。ロマ書においてパウロは「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。」(ロマ 8:15)と記している。私たちが子とされていること、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を授けられていることは神に向って祈り求めることができることによってわかるのである。「アッバ、父よ」という言葉は幼子が最初に父に向って発する言葉であると言われる。幼子は美辞麗句をもって父母に訴えることはできないが、暑さ寒さ、空腹、痛み、・・・等々を「パパ・ママ」あるいは泣声によって訴える。他の人にはわからなくても父母はその声によって幼子の訴えを、必要を理解し、それに応えるのである。「アッバ、父よ」と訴えることが出来、その答えを得ることが出来ることこそ、神の子とされていることの証である。
2022/11/10(木)担当 ラウジー満世師 創世記21:1-8 賛美 聖歌(総)532 聖歌514
イサクの誕生において神の「約束」と並んで何度も語られる言葉は「笑い」である。これは生まれた子の名前にもなり、イサクの生涯を通じて常に彼の誕生にかかわる恵みを思い起こさせる言葉となった。しかしかつてアブラハムは百歳の者に子が生まれるはずがないとひそかに笑った(17:17)。サラもまた年齢を理由に、神の約束が成就するはずがないとして笑った(18:13)。神に召されたときにすぐにその御声に従って生まれ故郷を離れるほどの勇気と信仰を持った二人でさえも、実現するはずがないと考えて否定的に笑うほどの、あり得ない約束だった。しかし神が御業をなさる時に否定的な笑いは心からの喜びと賛美の笑いへと変えられる。それはサラに賛美を与え、人々に驚きをもたらす。
人は神のなさる驚くべき御業を見、体験し、知る時に心から湧き上がる喜びと賛美を体験する。日々の忙しさに振り回され、目と心を奪われやすい余裕のない社会に生きている私たちだが、毎日時間を決めてその忙しさから神へと目を転じ、今神がなさっている御業に心を向けて感謝と賛美に満たされよう。
2022/11/11(金) 担当 高谷清師 詩 72:1-19 賛美 聖歌(総)150 聖歌 195
本篇は「王の詩編」に数えられている。本篇にA. ヴァイザーは「王のための祈り」という表題を付し、月本昭男師は「あなたの公正と正義を王に」という表題を付しておられる。更に鍋谷尭爾師は「あなたの公正と正義を王に」という表題を付しておられる。カナンの地に入ったイスラエルは神政政治に飽き足らず、王を求めた。渋るサムエルに対し主は民の要求を受け入れるように語りイスラエルに王政が始まった。神は申命記17:14-20に王に関する規定を定めていられる。それによると「王は必ず、主が選ばれた者でなければならず、同胞でない外国人であってはならない。大勢の妻をめとって、心を迷わしてはならず、銀や金を大量に蓄えてはならない。王にたてられた者はレビ人である祭司のもとにある原本からこの律法の写しを作り、それを自分の傍らに置き、生きている限り読み返し、神なる主を畏れることを学び、この律法のすべての言葉とこれらの掟を忠実に守らねばならない。」のである。王は恣意的に行動してはならず、常に神の言葉に従って民を導かなければならない。これは今日も主の民を導く務めを与えられた指導者に求められる鉄則である。
2022/11/12(土) 担当 高谷清師 マタ 6:5 賛美 聖歌(総)230 聖歌 254
イエスは祈りについての教えの中で「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。」と教えておられる。当時の人々の中には自分が神に対して熱心な者であることを人々に誇示し賞賛を得ようとして、より多くの人々の目につく会堂や大通りの角に立って祈りたがる者達がいた。イエスはこのような者達を「偽善者」と呼び、信仰者の祈りがそのようなものであってはならないことを教えておられるのである。祈りは神と私との対話であり、私は神に対して語り、神がわたしに対して応答してくださるのであり、また、神がわたしに語りかけてくださり、私がその語りかけに応答する行為である。自分の祈りを人々に誇示して人々の賞賛を得るなら、既に人々から報いを受けてしまったのであり、神からの報いを受けることはできないと主は教えておられる。神からの報いを受け得る信仰生活を歩もう。
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