≪デボーションの友≫2022/11/21-26

2022/11/21(月) 担当 高谷清師 ガラ 4:8-11 聖歌(総)462  聖歌 450

 パウロは「今は神を知っている、いや、むしろ神から知られている」と語る。この箇所について近藤勝彦師は

「信仰は私が第一の位置にあって神を知っているのではないのです。そうでなく信仰はむしろ、神から知られていることで成立しています。「神から知られている」のは、「神が御自分に属する者として私たちを知っていて下さる」ことです。この「知る」には、「選ぶ」という意味があるとも言われます。神が選んでくださっています。神から知られていることは、神に選ばれていることであって、神と私たちとの間に「交わり」が打ち建てられています。それによって私たちの方からも神を知るのです。神から知られているので、知られた者として神を知ります。」(十字架のキリスト以外に福音は無いP92-93)

と述べておられる。ヨハネもまた「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Ⅰヨハ 4:10)と記している。「神から知られている」「神がわたしたちを愛していてくださる」ここに信仰の・救いの確かさがある。

2022/11/22(火)担当 ラウジー満世師 創世記21:22-34 賛美 聖歌(総)513 聖歌495

 アビメレクという王がアブラハムのもとへ来て友好を求めて条約を結ぼうとする。アブラハムは求めを受け入れるが、同時に両者の間には解決しなければならない井戸の問題があった。井戸は生存のために欠かせないものであった。井戸が奪われたり、他の人々に脅かされたりするということは死活問題であった。両者の間には難しい問題もあったのだろうが、それにもかかわらずアビメレクはアブラハムに対して非常に丁寧に対応し、両者の間には契約が結ばれた。その背後にあった理由は22節にあるようにアビメレクがアブラハムにはいつも神が共におられるということをしっかりと認識していたからであった。

 アブラハムを召し出した最初から神は彼と共に居ることを約束されたが、それは単なる口約束ではなかった。周りの民族も神が共にいてアブラハムとその家族を守っていることを知りうるほどに明確なものであった。力ある神が共にいて下さることは私たちにとっても大きな力である。

2022/11/23(水) 担当 高谷清師 ガラ 4:8-11  聖歌(総)250  聖歌 273

 近藤勝彦師は更に言葉をつないで

「私たちが知っているのが最初ではありません。それが根本ではないのです。私たちが知っているだけなら、まことに不十分です。信仰以前に逆戻りしかねないでしょう。しかし神から知られているなら、逆戻りはないでしょう。それは御子と御霊の派遣にもはや逆戻りがないのと同様です。「神から知られている」のは、御子をお遣わしになり、世の諸力の支配から贖い出してくださった神から知られ、選ばれていることです。御子と御霊の派遣によって、神の憐れみの中で知られ、選ばれています。神が共にいてくださることに何ものにも換え難い慰めと力があります。「神から知られている」というのは、「神の子とされている」ことです。神から愛され、選ばれていることで、もはや逆戻りはありません。」(十字架のキリスト以外に福音は無いP93)

と述べておられる。ぺトロは「何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。」(Ⅱペト 1:20-21)と記している。またパウロは「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」(Ⅱテモ 3:16)と記している。信仰無き哲学者や聖書学者が聖書から神について語る論を目にする。それは世の学としては素晴らしいかもしれない。しかしそれは人に命を得させることはできない。命は神の霊によるからである。

2022/11/24(木)担当 ラウジー満世師 創世記22:1-3 賛美 聖歌(総)241 聖歌263

 22章は良く知られた、アブラハムがイサクをささげるという出来事を記している。約束により神から与えられた特別な息子イサクはアブラハムにとって大切な存在であった。年老いてからの子というだけではなく、神の約束を担う子どもであった。それなのに神は彼の命を求められた。この出来事を聖書の言葉として読む私たちは神が試しておられることを知っているが、アブラハムにとってはまさに青天の霹靂である。どう考えても理解できないが、ただ神の命令は明瞭である。アブラハムが愛している独り子であることを神はご存じでありながら献げよと命じられる。ましてや人の命を神への犠牲にすることは周辺民族では行われていたが、主なる神は求められないことであったはずなのにこのように命じられた。

 理屈で考えても理解できないことを神は要求された。渦中にあって私たちは神の意図を知り得ないことがある。アブラハムのように、私たちもどんな状況でも「あなたは私に従うか」と神に試されることがありうる。経験と常識に反する神の命令を受けたなら、それを神から来たと見極めて信仰によって従うためには日々の主との交わりが必要である。

2022/11/25(金) 担当 高谷清師 詩 72:1-4 賛美 聖歌(総)241 聖歌 263

 祈り手は「神よ、あなたによる裁きを、王に/あなたによる恵みの御業を、王の子に/お授けください。王が正しくあなたの民の訴えを取り上げ/あなたの貧しい人々を裁きますように。」と祈る。この箇所を聖書協会・共同訳は「神よ、あなたの公正を王に/あなたの正義を王の子にお授けください。彼が正義によってあなたの民を/公正によって苦しむ人を裁きますように。」と訳している。申命記が記す王に関する規定には「彼が王位についたならば、レビ人である祭司のもとにある原本からこの律法の写しを作り、それを自分の傍らに置き、生きている限り読み返し、神なる主を畏れることを学び、この律法のすべての言葉とこれらの掟を忠実に守らねばならない。」(申17:18-19)と記されていた。A. ヴァイザーは「まさにオリエントの専制的な独裁と違って、旧約聖書の王制は神の正義の秩序のもとに存続する。王はこの秩序の遂行について、神なる主に対して責任を負う。」(ATD旧約聖書註解詩篇中P208 ATD・NTD聖書註解刊行会1985)と記している。それ故に正しい王権の執行は祈りによって支えられて初めて可能である。指導者のために今日も祈ろう。

2022/11/26(土) 担当 高谷清師 マタ 7:7-12 賛美 聖歌(総)205 聖歌 236

 イザヤが神の栄光を目にした時イザヤは「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。」(イザ 6:5)と叫んだ。パウロが自分の中に住んでいる罪を見せつけられた時、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(ロマ 7:24)と告白している。人が自分の内に巣食う罪を発見する時、絶望に突き落とされる。しかし主は「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(マタ 7:7-8)と語っていてくださる。私たちの真の救い、永遠の命は自分に対する絶望から始まる。