≪デボーションの友≫2023/3/20-25
- 2023.03.19
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2023/3/20(月) 担当 高谷清師 マル15:33-41 賛美 聖歌(総)426 聖歌 424
ゲツセマネにおいて「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と祈られた主は父なる神の御心である十字架にむかって進まれた。十字架につかれたイエスについてマルコは「三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」と記している。「神から見捨てられる」それこそ完全な絶望であり死である。橋谷英徳師は
この十字架の暗さは、主イエスの苦しみの深さと一つである。
ジュネーブ信仰問答には次のような問答がある。
問六八 しかし、彼は神であられるのに、どうして神から見捨てられたかのように、これほどの戦傑に襲われることがあり得たでしょうか。
答 これはこういうふうに理解しなければなりません。彼は人間性に属する感情によって、このようなのつぴきならぬ境地で苦しみたもうたのです。このことが実行されるために、その間しばらく、彼の神性は隠れました。すなわち、その力を発揮しませんでした。
非常に大胆であり、危険でさえあるようなことばである。キリストの神性がしばらくの間であったとしても隠された。それほどに神の審きの下に立つ人となってくださった。それは「まさにキリストが神であられたからこそ、その恵みの自由によって、神であられることを隠してでも、徹底的に人間であろうとしてくださった。まさにそこでインマヌエルの現実を徹底して生きてくださったのである」(加藤常昭)。キリストの苦しみは、私たちのための苦しみであり、本来私たちが受けるべきものであった。キリストの絶望は、本来、私たちの絶望であったのである。(説教黙想アレテイアマルコによる福音書P479日本キリスト教団出版局2010)
と述べておられる。パウロは「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリ 2:6-8)と述べている。またぺトロは「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」(Ⅰペト 2:24)と述べている。御子は罪な気お方であった故に罪とそれが招く神との断絶、死の恐ろしさを誰よりもご存知であった。御子の受けられた絶望、それは私の受けるべきものであった。それを御子が受けてくださったことによって私たちはその絶望から解放されているのである。感謝!!
2023/3/21(火)担当 ラウジー満世師 創世記32:14-22 賛美 聖歌総合版632 聖歌594
ヤコブは約20年ぶりの兄との再会を目前に控えているが、今でも兄が怒っているかどうかも分からない状況での出会いは予測のつかないものであった。いかにして兄の怒りを鎮めるかを考え、多くの贈り物を3つに分けて兄のもとへ送る。いかにも計算高いやり方である。ヤコブは恐れの中で自分の命を守るためにとにかく必死である。またこのように兄への贈り物を示すことによって神がヤコブを祝福しておられることを伝え、また兄からかつて奪い取った祝福を返してもいる。ヤコブの抜け目なさが目立つが、同時に彼はこれに先立って神に祈り(32:10-13)、兄を畏れていることを告白し、神から注がれた幸いを思い起こしていただき、救いを求めている。そしてその上で対策を取って兄をなだめている。
聖書は淡々とヤコブの行動を伝えるため、彼の真意を測ることは難しい。しかし、ヤコブはこの時、自分で何とかしようと行動し、同時に祈りによって神に頼っている。祈りか、行動かの一方ではなく、祈りつつ行動している。私たちにも祈りと行動の両方が必要である。
2023/3/22(水) 担当 高谷清師 マル15:33-41 賛美 聖歌(総)394 聖歌 394
マルコは「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。」と報告している。この出来事はマタイ(マタ27:45)、ルカ(ルカ23:44)も記している。この暗黒は人類を永遠の死から解放するために、人類の全ての罪を負って十字架に架かり、死んでくださったキリストが味わってくださった暗黒である。更に、ヨハネは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハ 3:16)と述べている。神は自らの罪のために死に定められた人を限りなく愛し、人を罪から贖うために御子を十字架につける道を定められた。御子の十字架は御子ご自身にとって大きな苦しみであったばかりでなく、父なる神にとっても大きな苦しみであった。あるお方が「父なる神は御子の苦しみを見るに見かねて御顔を隠された」と記しておられた。十字架は御子にとっても、御父にとっても大きな苦しみであった。これを為させたのは唯、人に対する愛である。神の愛の広さ深さに感謝しょう。
2023/3/23(木)担当 ラウジー満世師 創世記32:23-33 賛美 聖歌総合版577 聖歌553
兄との再会を前にして一人で夜を過ごすヤコブにある人が現われる。正体の分からぬその相手は突然現れて彼は一晩中格闘する。これが神なのか、霊的存在なのか、あるいは兄なのか、全くわからぬままヤコブは格闘する。互角の戦いを続ける中でヤコブは驚くべきことにこの時も祝福を求める。どんな状況にあっても祝福を求め、兄からつかみ取ってきたヤコブであったが、この時も変わらない。ついに手に入れた祝福は、今までのヤコブの生き方を表している名が、神が守ってくださるという意味のイスラエルという名に変えられたことである。兄との対面を控えてこの見知らぬ人との出会いと格闘を通して、名前と共にヤコブ自身も変えられたのである。
見知らぬ人の正体については様々な解釈がなされるが確定は出来ない。しかしこの出会いを通してヤコブ自身が変えられ、これが神を見た体験だと確信して地名を変えている。人生の節目の大切な出来事を前に神は介入し、ヤコブを変え、備えて下さった。神は必要に応じて不思議な形で人に働き、造り変えることがおできになる。主にすべてをゆだねよう。
2023/3/24(金) 担当 高谷清師 マル15:33-41 賛美 聖歌(総)465 聖歌 453
マルコは「イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」と記している。橋谷英徳師は
「苦難の表象はさまざまであるが、究極的には神に見捨てられることである。言い換えると、私たちの苦難は対自関係でも対人関係でもなく、神との関係なのである。この主の十字架の苦難は、そこから私たちを救う。神との関係に道を開く。だから、主が息を引き取られた後、直ちに「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」と語られる。このことは罪が贖われここに救いが成ったことを示す。それは神と人との関係が救われたということである。神と人との間を結ぶ道がここに開かれた。」 (説教黙想アレテイアマルコによる福音書P479日本キリスト教団出版局2010)
と述べておられる。イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハ 14:6)と語っておられる。イエスが十字架の上で流された血と捨てられた命によって開かれた道だけが救いの道、命の道である。
2023/3/25(土) 担当 高谷清師 マル15:33-41 賛美 聖歌(総)579 聖歌 555
イエスの十字架刑の指揮を執っていた百人隊長は一連の出来事を見て「本当に、この人は神の子だった」と言った。これについて橋谷英徳師は
「「神の子」は、ローマ皇帝の呼称であったとされるが、その呼び名をローマの百人隊長が主イエスに用いていることになる。マルコはこの百人隊長をとおして、「この人こそ本当に神の子」との告白をしているのかもしれない。マルコによる福音書は「神の子イエス・キリストの福音の初め」(1:1)と冒頭に記したが、ここでそのことの意味が明らかになっていると言えるかもしれない。この十字架の死において、神の国は到来した。ユダヤ人だけではなく異邦人にまで救いは及ぶ。ここにこうして神の子の福音がはじまったのである。」 (説教黙想アレテイアマルコによる福音書P479日本キリスト教団出版局2010) と述べておられる。イエスが弟子たちに「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と問われた時シモン・ペトロは、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。これに対してイエスは「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。(マタイ16:14-17」と語られた。またヨハネは「だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」(Ⅰヨハ 5:5)と語っている。神はユダヤ人、異邦人の別なく真実をもって近づく者にご自身を顕してくださる。
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