≪デボーションの友≫2023/4/17-22
- 2023.04.16
- ディボーションの友
2023/4/17(月) 担当 高谷清師 Ⅰコリ15:1-11 賛美 聖歌(総)653 聖歌 608
パウロは福音の最も大切なこととしてあなたがたに伝えたのは、「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」であると語った。それに続いて復活されたキリストがご自身を現わされた人々を列挙する。使徒言行録においてパウロがアテネで御言葉を宣べ伝えた時、パウロの話がキリストの死者の中から復活に及ぶと「ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。」(使17:32)と記されている。このように、多くの人々にとってキリストの復活はキリストの死にくらべて受け入れ難いものであった。それ故、パウロは多くの証人を記しているのである。それのみならず、復活の主との出会いは大きな恵みである。「それによって、十字架の刑死によって絶望挫折の極にあったものが、歓喜と確信にあふれで「地のはてまで」(使徒1:8)復活の主の証人となるほどの変換を引きおこすものであった。」(大宮溥師・説教者のための聖書講解-コリント人への第一の手紙・コリント人への第二の手紙P247日本基督教団出版局1985)のである。
2023/4/18(火)担当 ラウジー満世師 創世記35:16-29 賛美 聖歌総合版481 聖歌468
次世代へと移り変わる次第が記されている。ヤコブの愛する妻ラケルは旅の途上で出産する。大変な難産であったが男の子を生み、ラケルはこの時、生涯を閉じる。ヤコブが愛した妻の死は悲しみをもたらすが、彼女の死と共に次世代の男の子が与えられる。母にとっては苦しみの子であったが、父にとっては幸いの子であり、その思いはベニヤミンという名に表された。35章の最後の部分ではイサクの死についても報告されている。イサクも神の祝福を受けて長い生涯の日々を与えられ、満ち足りて死んだ。神の選びを受けてその家族を導いてきた者が主のもとに召されるが、確実に主の御業は次世代と共に前進する。
地上の生涯を終えた人々の歩みは常に完ぺきでではなかったが、神はその人々と共に歩まれ次世代を整えられた。二人の死を通してヤコブの時代もまた終わりに近づいていることを感じるが、神はどんなときにも共にあって導いてくださる。
2023/4/19(水) 担当 高谷清師 Ⅰコリ15:1-11 賛美 聖歌(総)529 聖歌 511
パウロは「最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。」と語る。「使徒」の条件は「地上を歩まれたイエスにそば近く仕え、主から親しく訓練と薫陶を受けた者」とされている。このことから見るとパウロはその条件には当てはまらない。パウロは生前地上を歩まれたイエスに仕えず、キリストの福音に反対し、神の教会を激しく迫害したのである。エルサレムにおけるキリスト者迫害をあらかた達成し、ダマスコのキリスト者を迫害するため向かっていた時、ダマスコ郊外において復活されたキリストに出会い、キリストを受け入れ、使徒の務めを授かったのである。
イエスはナタナエルについて「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」(ヨハ 1:47)と語っておられる。サムエル記において主は「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サム上 16:7)と語っておられる。常に真実をもって従おう。
2023/4/20(木)担当 ラウジー満世師 創世記36:1-43 賛美 聖歌総合版552 聖歌530
ヤコブ家族の世代交代を伝える中で聖書はヤコブの兄エサウのことも決して忘れてはいない。神は長子の特権も祝福の祈りもヤコブに移されることを許されたが、それでも兄エサウについて敬意をもって記述されてもいる。35章の最後の父イサクの埋葬では兄エサウの名が最初に記されている。36章では驚くほど詳細にエサウの子孫の系図が記されてもいる。イスラエルの民、神の民として歩んでいくのは確かに弟ヤコブの子孫だが、神は兄エサウをも決して忘れてはおられなかった。長々と記された系図のとおり、エサウの子孫も発展し、各地で増え広がり、祝福を受けた。
しばしば私たちは一つの場所、系図に注がれる神の恵みだけを追うことで精一杯である。しかし神は造られたすべての人々に目を注ぎ、約束された祝福を確かに注いでくださる。すべての民が神の恵みと愛を受ける存在であることを覚えることは私たちがあらゆる人々を愛して神の恵みを伝え続ける原動力となる。
2023/4/21(金) 担当 高谷清師 Ⅰコリ15:1-11 賛美 聖歌(総)396 聖歌 396
「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。」と語ったパウロは「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。」と語る。このことについて竹森満佐一師は
「使徒の生活は楽しかったでしょうか。嬉しいことが満ちあふれていたでありましょうか。そうではありますまい。コリント人への第二の手紙などに書いてあるように(11章)、伝道者の生活は容易なものではありませんでした。それなのに、ただ恵みによるのである、とどうして言うことができるのでしょう。パウロは、使徒というものの出発点が、恵みによるのであることを知っていました。キリストの恵みを思わなければ、使徒としての仕事がはじまらなかったことをよく知っていました。それゆえに、使徒であることは、ただ、神の恵みによる、としか考えられなかったでありましょう。実際の使徒の仕事は、大変なものでありました。人びとにさげすまれ、迫害されるものでしかありませんでした。しかし、それは、恵みによる、というほかはなかったはずでありましょう。」(『講解説教・コリント人への第一の手紙P561』新教出版社1988)
と述べておられる。イエスは「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」(ヨハ 15:16)と語っておられる。私たちは神の一方的な選びによって恵みに与っている。神の恵みの内にある生活、それは安逸をむさぼる生活を保障するものではない。激しい試練と戦いに遭遇するかもしれない。しかし、我らを愛して罪から解放するために十字架に架かり、死んで葬られ、死に勝利してよみがえられた主が共に居てくださるのである。ここに私たちの平安と喜びがある。
2023/4/22(土) 担当 高谷清師 Ⅰコリ15:1-11 賛美 聖歌(総)574 聖歌 550 続いてパウロは「わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。」と語る。パウロは三次にわたる伝道旅行を行い、東地中海地域に福音を伝えた。また、多数の手紙を執筆してキリストの教えを体系化して神学の形成に貢献し、教会を指導した。その手紙は摂理の内に新約聖書に収録され、歴代に亘って多くの人々信仰形成に資し救いに導いた。青野太潮師は著書「パウロ 十字架の使徒」において「もしもパウロがいなかったら、今日のようにキリスト教が世界宗教として発展することは決してなかったはずである。(パウロ 十字架の使徒Pⅰ岩波書店)」と述べておられる。それにもかかわらず、彼は最後まで―殉教に至るまで謙遜であった。「働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵み」であることを自覚していたからである。ペトロは「同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、/「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。」(Ⅰペト 5:5)と語っている。いかなる時も謙遜に歩もう。
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