≪デボーションの友≫2024/1/1-6

2024/1/1(月) 担当 高谷清師 ルカ 2:22-38  賛美 聖歌(総)540 聖歌 522

 ルカは「さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。」と記している。両親は律法に忠実であったことが分かる。イエスもヨハネからバプテスマを受けようとされ、それをヨハネが思いとどまらせようとした時「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」(マタ 3:15)と語っておられる。人はしばしば自分の地位、立場に頼んで負うべき義務を免れようとする。しかし、正しいことをすべて行うことこそ、イエスに属する者にふさわしいことである。

 また、ルカは「主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。」と記している。これは御子の養育を託されたヨセフの家庭が決して裕福ではなかったことを記している。私たちは主の召しに対して資質や能力の不足を覚えるかもしれない。イエスは「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。(ルカ12:11-12)」と語っておられる。臆することなく主の恵みを証ししょう。

2024/1/2(火)担当 ラウジー満世師 出エジプト記1:1-7 賛美 聖歌総合版456 聖歌469

 新年を迎えた。ちょうど年も改まり、今日から出エジプト記を読み始める。創世記は天地創造に始まり、アブラハムが主の召しに応え、約束はイサク、ヤコブへと引き継がれ、ヨセフがエジプトに移った。飢饉の時に家族がエジプトへ呼び寄せられてファラオの厚意を得て定住した。創世記はヤコブの死とイスラエルの子らの和解の確認で終わった。「イスラエルの子ら」と言えば文字通り、イスラエル(ヤコブから改名された)の息子たちを指し、ヨセフの兄弟であった。出エジプト記は数世代も経てから始まるが、創世記を忘れてはいない。ヨセフの兄弟の名が冒頭に列挙され、この世代の人々が皆死んだ後にもイスラエルの子ら―出エジプト記ではイスラエル民族を指す表現―は地に拡がっていった。「国中に(1:7)」は国家という語ではなく「地」に拡がると言われている。神の約束は数世代を経たイスラエルの子らにもしっかりと守られている。

 イスラエルの民の歴史は出エジプト記から唐突に始まったのではない。神がアブラハムを選ばれた時に遡る。かつてはイスラエル民族に限られていたが、今私たちは主の救いを通して神の民とされている。これから神の民に示される神の導きを共に読んで行こう。

202/1/3(水) 担当 高谷清師 ルカ 2:22-38  賛美 聖歌(総)626 聖歌 589

 イエスの両親が、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを抱いて神殿に来た時、シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来た。シメオンについて「この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。」と記されている。シメオンは信仰の人であり、聖霊に満たされていた。シメオンを通して聖霊が働かれたのである。霊に導かれてメシアに出会ったシメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえた。両親に抱かれて神殿に詣でたイエスには多くの人々が出会ったはずである。しかし、イエスをメシアと認識できたのは祭司でもなければ律法学者でもなかった、即ち、宗教家でもなければ神学者でもなかった。シメオンと女預言者のアンナだけ、聖霊に満たされ、従っていた人々だけであった。聖書は「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」(Ⅰコリ 12:3b)と記している。常に聖霊に満たされ、聖霊に従って歩もう。

2024/1/4(木)担当 ラウジー満世師 出エジプト記1:1-7 賛美 聖歌総合版456 聖歌469

 出エジプト記冒頭では「イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますます強くなって国中に溢れた。(1:6)」という、少々極端な誇張表現がある。この爆発的な数の増加を表すために5つもの動詞を使っている。どれほど強調しても強調しすぎることはできないと言わんばかりである。これらの言葉のいくつかは神が世界を創造された時に被造物を祝福した言葉であり、アブラハムへの子孫繁栄の約束の中で使われた(創世記17章)。

 出エジプトは全体が暗い調子で始まっていると思うかもしれない。ヨセフ時代から数世代も隔たり、イスラエル人がエジプトに歓迎された経緯を知る人々も居なくなり、奴隷として苦しんだと書かれている。しかしこの時にも神は子孫を増やすという約束を確実に守っておられた。人が神の祝福を認識しないときにも神は約束を守り続けておられる。

202/1/5(金) 担当 高谷清師 ルカ 2:22-38  賛美 聖歌(総)474 聖歌 461

 シメオンは「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」とのお告げを聖霊から受けていたが、今、聖霊に導かれて出会ったこの幼子こそ、そのお方であることを知って幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」と。この箇所についてK. H. レングストルフは

「シメオンの言葉は、待望の時が終わって成就の時が始まったという、喜ばしい確信を表すものである。それ故、彼は今や神によって、来るべき方を指し示す預言者の務め(26節)から解放されることが許され、その結果、戦いの中に置かれていた以前のさまに代わって―神殿と民衆の指導者層とは実際メシア主義の敵であった―、死んで平和の中に入れられ、神ご自身の慰めを得て、もはや事の継続をうれえる必要を免れたのである。その言葉だけでなく続く言葉にも、真正の預言者の精神が息吹いている。」(NTD新約聖書註解(3) ルカによる福音書 P94 NTD新約聖書註解刊行会1976)

と記している。

 救い主との出会い―それは何と素晴らしいことであろうか。神を知らず、罪の中に空しく過ごしていた者を憐れみ、選び、救い主と出会わせ、救いの恵みにいれてくださった主に感謝する。

2024/1/6(土) 担当 高谷清師 ルカ 2:22-38  賛美 聖歌(総)569 聖歌 545

 シメオンは「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」と詠う。この箇所についてK. H. レングストルフは

「今始まる救いは、あらゆる点で古い預言の成就(イザ 52:10、42:6、49:6、46:13)であるとされる。この救いは全世界のものである!ただそれがイスラエルから発した故に、諸民族がそれを得ることは、神のためにその選びの民にも栄光を与えることとなる。救いはイスラエルに与えられたという信仰が、今や確証される。(中略)信ずる者は立ち(イザ 7:9)、栄光を共にする(ロマ 8:17)ということは、旧約と新約の根底にある共通の認識である。」(NTD新約聖書註解(3)  ルカによる福音書 P94 NTD新約聖書註解刊行会1976)

と記している。パウロは「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。ユダヤ人とギリシヤ人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。」(ロマ10:10-13)と記している。御子によって成就された救いはユダヤ人と異邦人の区別無く、信じるすべての人のものである。