≪デボーションの友≫2024/1/8-13
- 2025.02.21
- ディボーションの友
2024/1/8(月) 担当 高谷清師 ルカ 2:22-38 賛美 聖歌(総)196 聖歌 229
ルカは「父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。」と記している。この幼子については、天使によってイエスの誕生が予告された時「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」(ルカ1:32-33)と語られ、マリアの賛歌においては、聖霊によって「その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」(ルカ1:54-55)と語られ、羊飼いと天使の記事において「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」(ルカ2:11)と告げられていた。そして今シメオンから「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」即ち、この幼子こそイスラエルのみならず、万民のために整えてくださった救い、異邦人をも含むすべての民の救いの光であることを告げられたからである。パウロは「反抗する者を優しく教え導かねばなりません。神は彼らを悔い改めさせ、真理を認識させてくださるかもしれないのです。」(Ⅱテモ 2:25)と語っている。イエスは万民の救い主であり、反抗する者の為にも、拒絶する者の為にも血を流されたことを覚え、御言葉を伝えていこう。
2024/1/9(火)担当 ラウジー満世師 出エジプト記1:8-10 賛美 聖歌総合版499 聖歌482
エジプトでイスラエルの民はどんどん数を増していったが、それは神からの祝福のしるしであった。しかしエジプトの視点に立つと、これは喜ばしいことではなかった。エジプトへ来たヨセフを通して神がイスラエル(エジプトでは?)を死の危機から救ったことを知らないファラオにとってはこの民の爆発的増加は大変な危機であった。早急に手を打たなければならない。ファラオにとってイスラエルの子らへの神の約束や祝福などは全く知らぬことであり、知ったとしても喜ばしいことではなく、むしろ恐ろしく、忌まわしく、排除すべきことであった。
神の祝福は信じて従う者にとっては喜びであり、励ましであった。神の民の間ではこの喜びは共有され、さらに主に仕える原動力となる。だが神の祝福は信じない人々にとっては脅威で不愉快であり、時には妬みを引き起こすものである。神の祝福を受ける時、私たちは外圧を受けるような事態が起こっても、祝福の源である神を見上げ続けよう。
202/1/10(水) 担当 高谷清師 ルカ 2:22-38 賛美 聖歌(総)588 聖歌 710
続いてシメオンは「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。」と語る。救い主の到来によって恵みの時、救いの日は始まった。この時、その日についてはマリアが賛歌の中でうたっている。
「1:51 主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、
1:52 権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、
1:53 飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。
1:54 その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、」と。この価値の転回は神の言葉に自らの心を閉ざす者達には永遠に理解できない。それは信仰によってのみ、わかる事柄である。預言者の目には幼子の未来に起こる激しい反対が映るのである。この箇所について及川信師は
「この幼子は多くの人の支持を集める、とは言われません。多くの人を立ち上がらせたり倒したりし、反対されるように定められていると、シメオンは言うのです。神様は、私たちの願望を叶えてくれる便利な存在ではないのです。
神様は「愛せ」と言いますし、「赦せ」と言うのです。分かってはいます。でも、私たちは愛せない人がいるものです。赦せない人もいます。それが人間社会の現実、いや常識です。でも、この幼子は長ずるにつれ、神様の子として、神様が求めている愛と赦しを実践し、ご自分に従うように私たちを招かれるのです。
私たちは表向き、愛とか赦しを否定はしません。しかし、「敬して遠ざける」という言葉があるように、次第にイエス様を敬遠し、排斥していくでしょう。(ルカ福音書を読もう上P94 日本キリスト教団出版局2020)」
と述べておられる。へりくだって「イエスは主である』と告白しつつ従おう。
2024/1/11(木)担当 ラウジー満世師 出エジプト記1:11-14 賛美 聖歌(総)473 聖歌460
イスラエル人の数を抑制するためにファラオは重い強制労働を課した。エジプトでのこのような労働は自由人でない住民に求められ、王への奉仕と理解された。ファラオはイスラエルを自分の所有物と位置付けて彼らを自分に仕えるものとして支配した。これは命を与えてイスラエル人を大きくする神の祝福への反抗であるのみならず、神に仕えるべき神の民を強制的に自分に仕えるように仕向けることであった。ファラオの仕打ちは民に向けられたものであったが、その内実は祝福の源である真の神への反抗であり、イスラエルの神に仕える者たちをファラオ自身に仕える者として神から奪い取る行為であった。
神はこのようなありさまを見て放置して置かれるようなお方ではない。神は民の苦しみに目を留めて下さる。また、ご自身に仕える者を奪うことを許されることはない。神は私たちの悩みにも目を留め、不当な扱いを受ける時には必ずその苦しみを心に留めて神の時に救ってくださる。主の御手の中にあることを感謝しよう。
202/1/12(金) 担当 高谷清師 ルカ 2:22-38 賛美 聖歌(総)424 聖歌 423
シメオンは「――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」と語る。主はサムエルに対して「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サム上 16:7)と語っておられる。ヘブライ人への手紙の記者は「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。」と述べている。人は他者の心を見ることはできない。他者があくまで言い張るなら、それが偽りであると分かっていてもそれを証明することはできない。パウロは「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。」(フィリ1:15-18)と語っている。福音宣教においてさえ、不純な動機から行う者が存在する。神はすべてをご存知であり、それを裁かれる。故に、パウロは「キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」(エフェ4:21-24)と勧める。他者には隠し果せても神はすべてを識別し、裁かれる。真実に歩もう。
2024/1/13(土) 担当 高谷清師 ルカ 2:22-38 賛美 聖歌(総)529 聖歌 511
続いてルカは女預言者ハンナについて記す。申命記は「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。」(申 19:15)と語っている。物事は二人以上の証人の証言によって真実と認証される。女預言者ハンナは若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた。彼女は偉大な人であり、昼夜神に仕える聖女であった。ルカがこう伝える時、彼女の証人としての適格性を証明しているのである。二人の証人が記されていることはこの箇所において語られている幼子に関する預言が真実であることを確証しているのである。確信をもってイエスに従おう。
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