≪デボーションの友≫2024/1/15-20
- 2025.02.21
- ディボーションの友
2024/1/15(月) 担当 高谷清師 ルカ2:41-52 賛美 聖歌(総)35 聖歌 93
ルカは「さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。」と記している。律法は「あなたは年に三度、わたしのために祭りを行わねばならない。」(出23:14)と記し、更に「年に三度、男子はすべて、主なる神の御前に出ねばならない。」(出23:17)と記している。更に,ユダヤ人の子どもは13歳になったとき、この律法に服することになる。このつとめが子供にとって突然の重荷となることがないように、敬虔な父親はその少し前から子供たちを将来の宗教的義務に慣れさせるのが常であった(K. H. レングストルフ)。
御子の養育を託されたヨセフ家は心を込めて律法を正しく守る敬虔な家庭であったことが分かる。コヘレトは「すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。」(コヘ 12:13)と記している。主を畏れ、その御言葉を尊び主に従って歩もう。
2024/1/16(火)担当 ラウジー満世師 出エジプト記1:15-22 賛美 聖歌(総)481 聖歌468
エジプトの王がイスラエル人に強制労働を課しても一向に彼らは衰えない。王は次にヘブライ人の助産婦に恐ろしい命令を下す。シフラとプアは出産時に男子を殺せと言う恐ろしい命令を受けるが、大胆にも王の命令には従わなかった。二人はあの大帝国の王の命令を拒んだのである。まさに命がけの行動であった。彼女たちはエジプトの王ではなく、真の神が祝福して命を与えるその御業に仕えたのである。事態を知った王から釈明を求められたとき、二人は死を覚悟していただろう。しかし知恵によって鮮やかに窮地を切り抜けた。自分たちが到着する前に出産が終わっているので何もできないのだと。恐らく実情は異なるだろうと思いつつも、王は証拠をつかめず、二人に対して何も出来ない。
世界帝国の王でも神の民イスラエルを意のままに支配出来ない。彼らが神を心から愛して仕え、また、彼らに知恵を与える神がいるからである。神の御声を聞き、神に仕えることが信仰者の最善の奉仕である。
2024/1/17(水) 担当 高谷清師 ルカ2:41-52 賛美 聖歌(総)150 聖歌 195
祭りの期間が終わったので両親は人々と共に帰路についた。祭りにはナザレからも多くの人々が参加したであろう。彼らは集落ごとに、あるいは親しい人々ごとにグループを組んで行動していたであろう。帰途に就く時両親はイエスの存在を確認せず、道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまった。宿に着いた時イエスがおられないことに気付いた父母は、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。母は「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」と言った。これに対してイエスは「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」と言われた。この箇所について竹森満佐一師は
「イエスの両親は、自分の考えだけで、主イエスを考えておりました。(中略)われわれが、まちがいなく、主を見出すためには、主が、どこにおられるか、ということを、主ご自身から、聞かねばならないのです。そして、そのところへ行くのです。そうすれば、主にお目にかかれるのです。主を正しく理解することができるのであります。(わが主よ、わが神よ一一イエス伝講解説教集P教文館2016)」
と述べておられる。パウロは「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」(Ⅰコリ 1:21)と記している。神は信仰によってのみ、知ることができる。
2024/1/18(木)担当 ラウジー満世師 出エジプト記2:1-10 賛美 聖歌(総)633 聖歌595
エジプトで生まれたヘブライ人の男子をすべてナイル川にほうり込んで殺さなければならない時代にモーセは生まれた。家族には赤ん坊の命を守りきれなくなった時、彼らは防水加工を施した籠に入れて、ナイル川に置いた。幼子を神の守りの御手に託したのだ。王が男子を殺すために用いようとしたナイル川に流されたモーセは、皮肉にも王の娘によって助けられた。さらに、ミリアムの言葉により、モーセの母自身がエジプトから手当まで受け取りながら我が子を育てる機会を、神は与えた。権力者であるはずのエジプト王の目論見は何一つ機能していない。皮肉にも娘である王女自身がそれを妨げている。ナイル川に投げ込まれるはずだった子は、反対にそこから引き揚げられた。子供の命が救われるために多くの女性たちが用いられた。
イスラエルが苦役に苦しむ時代に神の力強い御手は見出せなかった。しかし、一人の男の子を通して神は救いの時を備えておられた。華やかな奇跡が見えない時にも神は確かに働いておられる。神に信頼しよう。
202/1/19(金) 担当 高谷清師 ルカ2:41-52 賛美 新聖歌 458
竹森満佐一師は更に
「キリストは、人間の欲望を満たすために、人になられたのではありません。欲望を満足させたいと勢いこんでいる、人間の姿になられたのではありません。もし、欲望というのなら、その欲望のゆえに、罪を犯し、欲望にとらえられることの恐しさと苦しさにあえぐ人間の立場になられたのであります。そのゆえに、キリストは、だれよりも、われわれに近いものになってくださったのであります。なぜなら、この時に、人間は、真実に、人間としての苦しみを知るからであります。このような人間が、人間の真実の姿であることは、神が、キリストの十字架において、お示しになったのであります。ですから、そこに示されたことを受け入れなければ、キリストが、われわれ人間に、近い方、人間となられたお方であることは、到底、分るはずがないのであります。それなのに、われわれは、いつも、自分の立場から、自分のつくり上げた、キリストの像に合わせて、キリストを求めようとするのです。そうしている限り、われわれも、この両親のように、いつでも、キリストを求めることができないのです。まちがいながら、ようやく、キリストに近づいてみると、キリストは、自分が考えていたものとは、全く、ちがった者であったことに気がつくのであります。」(わが主よ、わが神よ一一イエス伝講解説教集P48-49教文館2016)」
と述べておられる。パウロは「わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」(ロマ7:23-25)と記している。自己義に固執する時、キリストを見ることはできない。自分の罪を知り、認め、悔い改める時始めてキリストを見ることができる。
2024/1/20(土) 担当 高谷清師 ルカ2:41-52 賛美 聖歌(総)462 聖歌 450
ルカは「両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。」と記している。
イエスが十字架と復活を語られた時、弟子たちはそれを理解することができなかった。その時イエスは「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」と教えておられる。神は私たちをはるかに超えて偉大なお方であり、神の言葉の全てを理解することはできない。しかし聖霊は時に応じて真理を明らかにしてくださる。その時まで神の言葉をすべてしっかりと心に納めておきたい。
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