≪デボーションの友≫2024/1/22-27

2024/1/22(月) 担当 高谷清師 ルカ 6:12-16  賛美 新聖歌 453

 ルカは「朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた」と記している。「使徒」について山崎英穂師は

「「使徒」という概念は、古いユダヤの法制度にさかのぼるといわれ、その制度の根本にあるのは、被派遣者は派遣者と同等であるという精神である。まさに十二人はそのような重い任務と使命をもった使徒とじて選任される。」(説教者のための聖書講解No52P79日本基督教団出版局1985)

と述べておられる。前段落において安息日にイエスが右手の萎えた人をいやされたことに対して律法学者たちやファリサイ派の人々が怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合ったことが記されている。この頃からイエスの十字架が見え始めるのである。このような時点に在ってイエスは弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられたのである。イエスの復活の後、使徒たちは聖霊を受けて、イエスの命により御名を全世界に向って語り伝え、キリストの体である教会の基礎を築くのである。今日においては使徒職は存在しない。しかし「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」(Ⅱテモ  4:2)と言う御言葉は生きている。与えられた使命に忠実に従おう。唯、主の栄光の為に。

2024/1/23(火)担当 ラウジー満世師 出エジプト記2:11-15 賛美 聖歌(総)502 聖歌485

 モーセがナイル川で王の娘に救われてから長い年月が経った。宮廷で高度な教育を受けて成人した頃にもヘブライ人に対する過酷な重労働は続いていた。ある日モーセは一人のヘブライ人がエジプト人に打ちたたかれているのを見た。この時モーセは明らかに同胞ヘブライ人に心を寄せ、気にかけて、自分の同胞として見ている。逆に自分がその宮廷で育ったはずのエジプト人には帰属意識を持っていない。モーセは行われている不正を見、それを正すために行動した。

 モーセはエジプトの宮廷で高度な教育を受けていた。教育は思想やアイデンティティの確立をも促すものだが、モーセはヘブライ人と自覚していた。乳母として王女から任命された母の働きも大きかったかもしれないが、なぜモーセはヘブライ人としての自覚を持てたのだろうか。神はこの異国で育てられたモーセにも常に働き、不思議な導きを与えておられた。主は将来の働き人を人々の目に留まらぬところで育てておられる。

2024/1/24(水) 担当 高谷清師 ルカ 6:12-16  賛美 聖歌(総)44 聖歌 100

 イエスは祈るために山に行かれた。「山」それは人々の来ない寂しい所である。「モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。」(出エ19:3)と記している。聖書において「山」は祈りと啓示の場であった。イエスは山上の説教において祈りについて「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」(マタ6:5-6)と教えておられる。祈り、それは神との対話である。私たちは祈りにおいて自分の願いを神に伝え、祈りにおいて神の愛を知り、御心を知り、御心に従う力を受け、御名を賛美するのである。祈りは、祈る姿を人に見せ、自分の会信仰深さを誇示する機会ではない。「山」、それは主と我との場であり、どんな忙しさの中にもどんな喧騒のなかにも得られる。絶えず祈り、御力によって歩もう。

2024/1/25(木)担当 ラウジー満世師 出エジプト記2:11-15 賛美 聖歌(総)497 聖歌480

 モーセは助けようとした同胞から拒まれる。エジプト人を打った翌日には喧嘩をしているヘブライ人の争いを仲裁しようとしたが、一方のヘブライ人から監督、裁判官としての権威を疑問視され、拒まれる。複雑な環境で育ったモーセにとってエジプトは故郷ではなかったが、一方で仲間と思っていたヘブライ人からは拒否される。確かな帰属意識を持つ故郷を持つことが出来ない人にとって、自信をもって指導者になることは至難の業である。モーセは同胞から拒まれ、エジプト人を殺し、隠した罪も露呈し、荒れ野へと逃げ出さねばならなかった。

 かつてのヨセフやヤコブ同様に、モーセも生涯の若き日には未熟で人々に受け入れらずに苦しんだ。それでも神はこの経験を通してモーセを鍛え、将来の働きに備えられた。働き人を育てるために神は忍耐して向き合ってくださる。

202/1/26(金) 担当 高谷清師 ルカ 6:12-16  賛美 聖歌(総)632 聖歌 594

 「「山」、それは主と我との場であり、どんな忙しさの中にもどんな喧騒のなかにも得られる。」と記した。信仰者の歩みはたえず主を意識し、主の御心を尋ね、導きを求める歩みである。イエスは「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。」(ヨハ5:19-20)と語っておられる。父なる神は常にご自分の御心を御子に示し、イエスはその御心を歩まれた。そのようなイエス様ではあったが、人生の危機や転機に当たって「山」に退いて祈られた、即ちバプテスマを受けて、将来の教会の礎を築く十二使徒の選定にあたって、十字架を前にしてゲッセマネにおいて。私たちも常に信仰によってイエスと共に歩むとともに、危機、転機に立つ時、御心を求めて「山」に退いて祈ろう。

2024/1/27(土) 担当 高谷清師 ルカ 6:12-16  賛美 聖歌(総)232 聖歌 256

 義人の祈りについて山崎英穂師は

「今日、私たちは祈りの無力や空虚を味わい、祈っても何にもならないという声も聞かれる。しかし私たちは改めて、イエスの祈りの姿を心にとめる。その時「義人の祈は、大いに力があり、効果のあるものである」〈ヤコブ5:16〉ということばが響く。義人の祈りとは「内面において神と深く結ばれ・・・・・心と心をもって神と交わる、そういう人間の、信仰から出て信仰に至る祈りに外ならない」(J・シュナイダ―NTD「ヤコプの手紙」〉。義人とは間違いのない人のことでなく、神と深いところで結合している祈りの人として、イエスこそ真実の義人なのである。そしてイエスの力ある祈りは、新しい共同体を生みだしていく。」(説教者のための聖書講解No52P79日本基督教団出版局1985)

と述べておられる。イエスも「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」(マタ 21:21-22)と語っておられる。み言葉に立ち、信仰と祈りによって歩もう。