2012/3/5-10
- 2012.03.05
- ディボーションの友
この箇所において著者は旧約聖書の三つの箇所を引用しつつ主と主の民の一体性を説いている。最初に主は「わたしは、あなたの名をわたしの兄弟たちに知らせ、集会の中であなたを賛美します」と語られる。これは詩編22:23 「わたしは兄弟たちに御名を語り伝え、集会の中であなたを賛美します」の引用である。この詩編22編は初代のキリスト者によってメシヤ的なものと認められていた。主が十字架上で叫ばれた「「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味の叫び(マコ15:34,マタ27:4)は本詩編の2節の御言葉の成就であるとされている。また兵士たちが主イエスの着物を分け合った時の事柄についてヨハネは「そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、「彼らはわたしの服を分け合い、わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。(ヨハ 19:24)」と語り、本詩編19節の成就としている。
本詩編の冒頭の言葉は義なる者が不義なる者のために死のうとする苦しみであった。しかしここに引用された23節は苦難をとおして成し遂げられて勝利の宣言である。そしてその勝利は教会によって告げ知らされ、教会において賛美されるのである。教会は世における一組織ではない。キリストの苦難によって勝ち取られた勝利を述べ伝え、勝利者を賛美するところである。
サムエルの民に対する最後の言葉である。サムエルは自分が主の僕として正しくイスラエルを導いてきたと語り始める。それは民によって承認された。さらに彼はイスラエルの歴史を振り返り、エジプトからの解放から始まって約束の地に入ってからも、常に神はイスラエルの民の求めと叫びに応えて彼らを救い出してくださったことを明言した。神はどのような状況でも決して民を見捨てなかった。それにもかかわらず、民は主に代わって治める王を求めた。
しばしば私たちの生活の中で神は私を助けてくれないとつぶやいていないだろうか。そして、神に代わる、目に見えて言葉を交わせる助け手や導き手を求めていないだろうか。私たちを真に導き、支えてくださっている神がおられることを覚えて、主とともに歩もう。
2012/03/07 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙2:12−13 賛美 聖歌458
続いて主は「わたしは神に信頼します」と言われる。これはイザ 8:17に記されている御言葉である。これは人となられた御子の神に信頼される姿である。御子は人となられることによって多くの肉の制約を受けられた。また多くの誘惑と試練に会われた。そのような中にあって父なる神への全き信頼によって勝利されたのである。著者は12章に「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました(ヘブ 5: 7)」と述べている。またパウロは「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました(ピリ 2: 8-9)」と述べている。
主の模範に倣いわたしたちも、如何なる試練に会うとも、如何なるい誘惑に会うとも全き信頼によって歩もう。
2012/03/08(木)担当 高谷満世師 サムエル記上12:6-19 賛美 聖歌595
サムエルは長い間主に仕えてイスラエルを正しく導いてきた(12:1-5)。それにもかかわらず民は神に立てられたサムエルを拒んで、他の国々のように彼らを治める王を求めた。神はそれを容認され、王を与えられた。その中でサムエルは小麦の刈入れの時に雷と雨を主に求めると、主はその願いに答えられた。主は人々の願いに答えて王を与えてくださった。しかしそれはサムエルが主に退けられたということではなかった。民はなおも主がサムエルの願いに答えて雷と雨を送られたことを見たとき、そのことを悟り、主とサムエルを恐れて悔い改めた。
人々は神の器を退けることがあるかもしれない。しかし、主に選ばれた者が忠実に仕え続けるとき、主はその人を用い続け、主の僕、預言者を通して語り続けられる。神に選ばれ、立てられ、忠実に主に仕える人々が語る言葉に耳を傾け、従い続ける者でありたい。
2011/03/09(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 2:12−13 賛美 心?20「主よ感謝します」
続いて、死に勝利して甦り、罪人の贖いの御業を成就して天に昇り、神の右の座につかれた主は、イザヤ書 8:18の御言葉を引用して「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」と言われる。11節や12節の「兄弟」 ということばではなく「子ら」という言葉が使われることによってキリストとキリストの民の一体性がより強調されている。このことについて主は地上を歩んでおられた時「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない(ヨハ 6:37)」「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである(ヨハ 6:39)」と語られた。パウロは「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです(ロマ 8: 15)」と言っている。わたしたちは神によって召され、御子を救い主と信じる者とされ、御子の贖いの御業によって御子のものとされ、子とされている。このめぐみは不動のものである。確信をもって歩もう。
主は「あなたがたは地上に富を積んではならない。富は、天に積みなさい。」と言われました。それは地上の富は「虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする」からであると言われました。それに対し天の富は「虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない」のです。パウロが「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません(?コリ 15: 50)」と言っているように、地上の富は神の国を受け継ぐことができないのです。そして人の心は富に縛られるのです。わたしたちが天に富を積む時、わたしたちの心もまたそこにあるのです。
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