2018/2/5-10

2018/2/5(月) 担当 高谷清師 ヨハネ 7:14-15 賛美 新聖歌 40
 兄弟たちが祭りに上って行ったあと、人目を避け、隠れるようにして上って行かれたイエスは、祭りも既に半ばになったころ、神殿の境内に上って行って、教え始められた。これを見たユダヤ人たちが驚いて、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言うとイエス「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。」と答えられた。ルカは十二歳のイエスについて「イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。」(ルカ 2:46-47)と記している。これらのことはイエスが神からこられたお方であることを示しているが、世はそれを認めないのである。

2018/2/6(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書21:1-7 賛美 新聖歌427
 ゼデキヤ王はバビロンという敵を主が離れ去らせてくださることを期待して神の御心を問う。自分がへりくだって神の御心を聞くことによって神が思いを変えて敵の手からユダを救ってくださるようにという算段なのだろうか。これに対してエレミヤは「伸ばした手と強い腕と」(21:5)によってという表現を用いて答える。通常この表現はかつて神がイスラエルを奴隷の地エジプトから救い出してくださった時に用いられた言葉であり、この表現からは救いが期待される。しかしエレミヤは、この時には救いではなく、神の激怒による民の死を告げる。
 私たちが神の前にへりくだりさえすれば神が必ず赦してくださるなどと考えていないだろうか。誰一人神をコントロールして救いを強要することはできない。神はご自身の自由な決定において人の祈りと願いにこたえられる。信仰者であることは神を思い通りに動かせるということではない。私たちは大胆に願うことが許されているが、最終的に決断をなさるのは神である。願いと求めを主に訴えることによって、祈ったことを主の主権のもとに委ねるという姿勢を学びたい。

2018/2/7(水) 担当 高谷清師 ヨハネ 7:14-15 賛美 新聖歌 38
 イエスが教えられた時ユダヤ人たちは「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言って驚いた。この箇所について関茂師は「教えかつ論ずることができるのは、ラビの学校を修了し、公認の教師より正規の伝授を受けた者に限られた。そういう者だけが、教えのためにまた各地を「巡回」(一節)することが許されていた。この壁は厚く、ある意味で絶対的であった。にもかかわらず、今、無免許・無資格のイエスの語る教えは、明らかに公認教師のそれであるか、あるいはそれをはるかに陵駕している。「この世」は、つねに教えそれ自体に耳傾けることはない。その由来をたしかめずには安心しない。エルサレムの名門ガマリエル校ともまったく無縁のイエスが、「どうして律法の知識をもっているのだろう」・・・こうして、真理を伝える声は、由来をたずねる疑惑の前で、ひとたびもふたたびもさまたげられる。」(説教者のための聖書講解No29P43)と述べておられる。
 人々は御言葉が語られる時、その語る人の学歴、地位などによって軽重を判断しょうとする。しかし御言葉は聖霊によって語られているか否かによって判断されるべきである。

2018/2/8(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書21:8-10 賛美 新聖歌165
 神からゼデキヤ王への言葉に続いて、民全体への言葉が語られる。神が御自分の意志によって裁きを撤回なさらないという状況においてなお民の前には二つの道が置かれているという。命の道と死の道である。この選択肢を目の前にして民は主に従って命を得るのか、神を拒んで死に至るかを決断しなければならない。国は滅ぼされるとしてもなおも個人の選択肢は取り去られてはいない。神はあくまで個々人の応答を求められる。ある集団に属しているからと言って、その人が神の前に命か死かという決断を自主的に選び取る権利がはく奪されるのではない。どのような時代であれ、状況であれ、一人一人がどのように神に応答するかは個人の決断にゆだねられている。それは新約聖書のメッセージにおいても与えられている選択肢である。
 命か死か。私たちも個人の責任において神に従う道か、逆らう道か、応答していくのである。

2018/2/9(金) 担当 高谷清師  詩 36:11-12 賛美 新聖歌 89
 ダビデは1−5節において「神に逆らう者」について語った。そして6−10節において神の偉大さと地上のすべての被造物は神によってのみ、生きる得ることを述べた。この箇所において祈りを記している。11節では「あなたを知る人の上に/慈しみが常にありますように。心のまっすぐな人の上に/恵みの御業が常にありますように。」と祈っている。「恵みの御業」を口語訳聖書は「救」と訳し、新改訳・カルヴァンは「義」、フランシスコ会訳は「豊かな恵み」と訳している。即ち、神を知る人、神を愛する人、信仰者の上に神の救いと豊かな恵みがあるよう、祈っているのである。12節では「神に逆らう者の手が/わたしを追い立てることを許さず/驕る者の足が/わたしに迫ることを許さないでください。」と祈る。神を知る者、神を愛する者が神に逆らう者の暴虐に対して直接復讐せず、神によって守られるよう、神に祈り求めている。パウロは「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。」(ロマ12: 17)と述べている。これが信仰者の生き方である。

2018/2/10(土)担当 高谷由紀子師 マタ 22:34-40 賛美 新聖歌 208
 律法の専門家が、イエスを試そうとして「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」と質問しました。旧約聖書には「何々をしなさい」「何々をしてはならない」と言う掟が613も存在すると言われています。それらの掟一つ一つは等しく重要なものでした。しかしそれらの全部を正確に記憶し、守り行うことは律法の専門家にとって至難の業であり、優先順位をつけることもできませんでした。
 この質問に対してイエスは「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」とお答えになりました。すべての律法の心は神を愛し、人を愛することです。
愛に生きる者となりましょう。”,,653″