2012/4/23-28

 

2012/04/23(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 ヘブ 4:1-11 賛美 聖歌589
 ここで著者は「だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません」と語る。福音はわたしたちが救われるのは、わたしたちの行いによってではなく、神の恵みによることを解く。それを聞いた人々の内から「救いは神の恵みによって一方的に与えられるのであるから、わたしたちは何を行ってもよい、どのような罪を犯してもよい」と考える者や、救いは自分の行いに関係なく自動的に与えられると考える者が現れる。これに対し、わたしたちがこの安息にあずかるためには努力することが必要であることを語る。パウロもまた「すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります(ロマ 2:7-8)」と教えている。またほかの個所では「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい(ピリ 2: 12)」と勧めている。今日も全力を注いで励もう。

 

2012/4/24(火)担当 高谷満世師 サムエル記上17:12-40 賛美 聖歌498
 少年ダビデは兄たちが戦う戦場に来て、一人の大男ゴリアテの言葉を聞いて恐ろしさの余り震えあがってどうすることもできないでいるイスラエルを見た。そして、イスラエルの兵との対話の中でダビデは、全く無割礼のゴリアテを恐れていないと語る。ダビデはサウルの前に召しだされ、ゴリアテと一騎打ちの戦いをすることとなった。
 これは物事を理解しない、知恵の浅い少年の愚かな振る舞いだったのだろうか。もしダビデが毎日家畜を守ってきたという自らの力とキャリアだけを頼みにしてそのように考えているのなら、この上なく愚かな少年だっただろう。しかしダビデの確信はこれまで様々な獣から自分を守ってくださった真の神への信頼、信仰があった。
 無謀な振る舞いと信仰に裏付けられた行動はしばしば表面的には同じに見える。私たちは自分の能力に頼らず、神の力を信じて、頼って、そして今日もダビデのように信仰をもって一歩を踏み出したい、 

 

012/04/25 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 4:12 賛美 聖歌196
 「神の言葉は生きており、力を発揮し」と語られる。ステファノは「この人が荒れ野の集会において、シナイ山で彼に語りかけた天使とわたしたちの先祖との間に立って、命の言葉(口語訳・生ける御言葉)を受け、わたしたちに伝えてくれたのです(使 7:38)」と語っている。またイザヤ書においては「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす(イザ 55:11)」と語られている。神の言葉は、生きておられる神ご自身の言葉であるゆえ、力があり、わたしたちの心の奥底まで極め、見分けることができる。それ故、わたしたちは人には偽ることができるとしても、神の前には偽ることはできない。更に神の言葉は自分が気付かない罪をも示し、気付かせてくださる。常に御言葉にとって自らを吟味し、御心にそう歩みをしてゆこう。 

 

2012/04/26(木)担当 高谷満世師 サムエル記上17:41-58 賛美 聖歌522
 今まさに一騎打ちの勝負をしようとする二人を見比べると、その差は歴然としていて、すべての人にとってゴリアテの勝利は間違いないものと見えた。ゴリアテもイスラエルから出て来たこの少年を見て侮っている(42節)。しかしダビデは揺るがない確信を持っていた。
 常識的に考えて歴然とした力の差があるとき、それは弱い立場の人にとっては恐れを引き起こす。しかし、神にとってはその力の差こそが、神の力と栄光を示すためのすばらしい舞台となる。人間の手には負えない不利な状況にあってこそ神の完全な勝利が示され、そのことを通してすべての人が神を認め、神の救いが示される。
 目の前にある状況を見て自分はだめだとあきらめているならば、私たちは信仰の目を失っているのである。あらゆる状況において勝利することができる神、そして御心に従って、また私たちの祈りと信仰に応えて勝利を表して下さる主を信じて、今日も宣言していこう。「この戦いは主のものだ」(47節)。 

 

2011/04/27(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 4: 13   賛美 聖歌553
 前節において神の言葉は、生きておられる神ご自身の言葉であるゆえ、力があり、わたしたちの心の奥底まで極め、見分けることができることを教えられた。本節において著者は「この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません」と語り、更に9章において「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」と述べている。またペトロは「彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません(?ペテ 4: 5)」と述べている。すべての人は、人の心の深みまでも見極めておられる神のみ前に立ち、自分自身のすべてについて申し開きをしなければならない時のあることを思い、人の目を適当にすり抜ける歩みではなく、心底から真実な歩みをしなければならない。 

 

2012/04/21(土)高谷由紀子師 ペトロの手紙?1:23-25   賛美 聖歌322
 春になってあちらこちらで色鮮やかな美しい花が咲き誇っています。しかしこの美しさもしばしのもの、やがて萎れ、枯れてゆきます。この自然の移り変わりを見ながら、わたしは聖書の言葉に思いをよせています。「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」わたしたちは罪と咎によって死んでいたものでしたが、キリストの尊い贖いの恵みによって「朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」。わたしたちはこの尊い、永遠に変わることのない神による命を与えられていることを感謝して日々前進しましょう。