2012/7/16-21

 

2012/07/16(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 7:1-3  賛美 聖歌396
 「イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです(ヘブ 6:20)」と述べた著者は、ここでメルキゼデクについて述べる。メルキゼデクについて創世記は『いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来た。彼はアブラムを祝福して言った。「天地の造り主、いと高き神にアブラムは祝福されますように。敵をあなたの手に渡されたいと高き神がたたえられますように。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に贈った。(創 14:18-20)」と記している。これは東から侵入してきた4人の王を打ち破り、ロトを救出し、奪われた財産と人を取り戻し凱旋するアブラムを出迎えた時の記事である。その時以降メルキゼデクは聖書の歴史に登場しない。著者が「彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です」と記す所以である。またその名の意味するところは「義の王」、「平和の王」である。
御子は始めも終りもない永遠の方であり、パウロが「実に、キリストはわたしたちの平和であります(エペ 2: 14a)」と記すように、義にして平和のお方である。
 

 

2012/7/17(火)担当 高谷満世師 サムエル記上30:11-20 賛美 聖歌502
 戦場からツィクラグに帰還したときにダビデとその兵が見たものはひどく破壊された町と家族や家畜が略奪されたあとの空っぽの町であった。略奪者の行方も知らず、明らかに兵力もわずかなダビデであったが、主の導きに従って略奪者の後を追った。しかし追跡中に落伍者が出た。ただでさえ少数の兵での追跡がさらに難しくなった。しかし神は真実な方である。追跡を続けたダビデの兵は略奪軍の落伍者を見つけた。病にかかって主人に捨てられたこの男を用いて、主はダビデの敵の下へと彼らを導いてくださった。
 自分の力ではどうすることもできないというような状況に私たちも遭遇する。また問題を解決するための何の手段も策も持ち合わせず、途方にくれてしまうような時もある。しかしそんな時でも私たちの目には力となりえないものをも用いて、神は御心にしたがって私たちを勝利へと導いてくださる。何よりもまず、主のみこころを知り、主に従うことを第一としよう。
 

 

012/07/18 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 7:4-10 賛美 聖歌493
 ここで著者はメルキゼデクの偉大さについて二つの面から述べる。第一にアブラムについて神は「あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る(創 12:3)」と語られた。アブラムはすべての人々の祝福の基である。そのアブラムをメルキゼデクが祝福したのである。通常、下の者が上の者から祝福を受けるのである。従ってメルキゼデクはアブラハムとその裔であるレビ族から立てられた祭司に勝って偉大である。
 

 

2012/07/19(木)担当 高谷満世師 サムエル記上30:21-30 賛美 聖歌444
 ダビデたちの追跡によってツィクラグの略奪者を追い詰め、留守の間に町から奪われた家族や財産を取り戻すことができた。
 ここで問題が持ち上がる。略奪者から取り返した戦利品の所有権は誰にあるのかということである。追跡の途上でダビデの兵の中の200人が落伍した。法によるとこの200人が分け前に預かる権利はない。それゆえ最後まで略奪者と戦った400人の兵たちが落伍者に分捕り品を与える必要はないといったことは当時の習慣によればうなづける主張であった。しかしダビデはそれを良しとはしなかった。この分捕り品は主が与えてくださったものであり、敵を自分達の手に与えてくださったのも主であるから、戦利品を皆で分け合わなければならないというのである。
 しばしば神に従う者の常識は世の常識とは一致しない。世間は多数派が正しいとする。しかし、神が私たちに要求される基準と常識は世の常識とは異なる。決してたやすい道ではないが、世の慣わしよりも主の御声を聞き分け、主の示される道を歩もう。
 

 

2011/07/20(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 ヘブ 7:4-10  賛美 聖歌156
 メルキゼデクの偉大さについての第二は十分の一についてである。「見よ、わたしは、イスラエルでささげられるすべての十分の一をレビの子らの嗣業として与える。これは、彼らが臨在の幕屋の作業をする報酬である(民 18:21)」と記されているように、レピ族の血統の祭司はその兄弟から十分の一を取るように律法によって命じられていた。しかしメルキゼデクは律法もなくレビの家系でもなかったのに、アプラハム―すべての人の祝福の基である方―から十分の一を集めた。それはメルキゼデクが「永遠に祭司」であるからである。レビ族の血統の祭司は死すべき定めにある者であった。しかし主は永遠不滅の大祭司である。
 

 

2012/07/14(土)高谷由紀子師ヨハネによる福音書10:46-52 賛美 聖歌157
 主が朝早く神殿に入って行かれると民衆が集まって来たのですわって教え始められました。そこに律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせて言いました「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」と。しかし主は何もお答えにならず、指で地面に何か書いておられました。それは彼らがイエスを試して、訴える口実を得るために言っていることを見抜いておられたからです。彼らがしつこく問い続けるので、イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言われました。この言葉は人々の心を刺しました。しばらくの沈黙の後、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残りました。主はこの女に向かって「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」と言われました。
 律法は罪を犯した者に滅びを宣告します。しかし主は罪ある者に赦しを与えられます。それは主が私たちの贖いのために十字架において流される血潮と捨ててくださる命を基としているのです。主の十字架は、信じる者に赦しといのちを与えるのです。