2013/1/28-2/2

 

2013/1/28(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙11:28 賛美 聖歌460
 著者は「信仰によって、モーセは滅ぼす者が長子たちに手を下すことがないように、過越の食事をし、小羊の血を振りかけました」と述べる。神の民イスラエルがエジプトで奴隷であった時、民はその苦役の故に叫び声をあげ、その叫びは神に届いた。そのため神はご自分の民を解放するためモーセを遣わされた。モーセはエジプト王ファラオを訪れ、イスラエル人を去らせるよう伝えるが、ファラオは聞き入れない。そのため神はエジプトに様々な災いを下される。災いに襲われた時ファラオはイスラエルの解放を約束するが、災いが終わると約束を反故にしてイスラエルを去らせない。このようなことを幾度か繰り返し、最後の災いが宣言される。それは「真夜中ごろ、わたしはエジプトの中を進む。そのとき、エジプトの国中の初子は皆、死ぬ。王座に座しているファラオの初子から、石臼をひく女奴隷の初子まで。また家畜の初子もすべて死ぬ(出 11:4-5)」と言うものであった。しかし主はモーセにイスラエル人はその日夕暮に犠牲の動物を屠り、その血を二本の柱と鴨居に塗るように命じられた。モーセはそのことをイスラエルの会衆に伝え、人びとはそのように行った。主がそのことを行われた時、エジプトでは死者の出ない家はなかったが、イスラエル人の家では死者は出なかったのである。それはモーセの信仰によるのである。
 

 

2013/1/29(火)担当 高谷満世師 サムエル記下23:1-7 賛美 聖歌597
 ダビデの最後の言葉としての詩が記されている。この詩においてまず強調されているのは、主の霊のはたらきである。主の霊がダビデのうちに語り、主の言葉が舌の上にある。
 「主の霊」の働きについて読むとき、私たちは霊的に恍惚状態になることを思い浮かべるかもしれない。しかしここでは、主の霊は言葉に関わる。ダビデは詩という形で神の言葉を受け取り、伝えた。ダビデは主の霊の担い手であった。その表現の賜物も主から与えられ、また表現された内容についても神の力が働いていた。ダビデはそのことをこの最後の言葉ではっきりと語っている。
 主の民とされている私達は、主が賜物を与え、主の働きを委ねてくださった存在として、主の霊の力を知り、正しく用いているだろうか。ダビデのように主が私達の内に力を与えて働かれることをしっかり受け止めて主に従いたい。
 

 

2013/1/30 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙11: 29 賛美 聖歌254
 さらに著者は「信仰によって、人々はまるで陸地を通るように紅海を渡りました。同じように渡ろうとしたエジプト人たちは、おぼれて死にました」と述べる。全初子の死と言う前代未聞の事態に直面したファラオは急いでイスラエルを去らせたが、事態が落ち着きを取り戻した時、またも心をかたくなにして大きな財産・奴隷を失ったことを悔い、精鋭部隊を率いてイスラエルの後を追い、ミグドルと海との間のピ・ハヒロトの手前で宿営しているイスラエルに迫った。イスラエルの人々はパニックに陥るが、神はモーセに「杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる(出 14:16)」と告げられた。モーセがそのように行うと海は二つに割れ、イスラエルは海のなかに乾いたところを渡った。しかし後を追ったエジプト軍は、流れ帰った水に呑まれ全滅した。これはモーセが神の言葉を信じ、行ったことによるのであった。実に信仰は不可能と見える神の言葉を可能とする。
 

 

2013/1/31(木)担当 高谷満世師 サムエル記下23:1-7 賛美 聖歌487
 この箇所の後半で、ダビデは神に従う人と悪人とを対比している。神に従う人は太陽の光である。イスラエルの周辺諸国では、正義と太陽が人々の思考の中でイメージとして結びついていた。また、後の雨によって潤され、植物が育つように、神に従って治める者の上には神から豊かな雨と実りが与えられる。まさにダビデの上に神の祝福があり、神が共におられるのである。一方では常にダビデの周りに存在した悪人達は決して栄えることがなく、焼き尽くされる。
 詩編1篇を思い起こす対比である。ダビデは決して完璧な生涯を送ってきたわけではなかったが、最後の言葉として確信をもって神が自分と共に居られたと語っている。私達の日々の歩みにおいても神が共にいてくださる。そのことを見極める信仰の目を持って主に従いたい。「今日も主の臨在を体験させてください」と祈ろう。
 

 

2013/2/1(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙  賛美 聖歌516
 続いてヨシュアの信仰について語られる。ヨシュアは主に導かれ、イスラエルを率いて約束の地に入った。しかし行く手には城壁を備えた堅固な町エリコが立ちはだかっていた。エリコはイスラエルの人々の攻撃に備えて城門を堅く閉ざしており、イスラエルの力をもっては攻略不可能であった。その時主はヨシュアに「見よ、わたしはエリコとその王と勇士たちをあなたの手に渡す。あなたたち兵士は皆、町の周りを回りなさい。町を一周し、それを六日間続けなさい。七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携えて神の箱を先導しなさい。七日目には、町を七周し、祭司たちは角笛を吹き鳴らしなさい。彼らが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、その音があなたたちの耳に達したら、民は皆、鬨の声をあげなさい。町の城壁は崩れ落ちるから、民は、それぞれ、その場所から突入しなさい。」(ヨシ 6:2-5)と語られた。それは人間的にはばかげたものと思われたが、神の言葉であるが故に、信じてそのとおりに行ったところ、城壁は崩れ落ち、イスラエルは勝利を得た。ここにもまた信仰の力を見る。
 

 

2013/2/2(土)高谷由紀子師 マルコによる福音書1:14-15 賛美 聖歌520
 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」これは主イエスが宣教を始められた時の最初の言葉です。一般的に、苦難や災難に遭っている人々は平穏無事に暮らしている人々に比べて、平素の行いが悪く罪深い人々だと考えたがります。しかし主は、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた人々に対して「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」(ルカ 13:2-5)と語られました。パウロも「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが(ロマ 3:23)」と述べているように、生まれながらの人はすべて罪人であり、悔い改めを必要としているのです。