2013/2/18-23

 

2013/2/18(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙11: 32−34 賛美 聖歌545
 続いて著者はダビデについて語る。ダビデについては、旧約聖書歴史書に詳しく記されているので当該各書を取り上げる機会に譲るが、ここでは一つの記事について学んでみよう。サムエル記上26章において、ダビデは自分の命を奪うために精鋭3000の兵を率いて追ってきたサウルを殺害するチャンスを得た時、部下のアビシャイがサウル殺害の許可を求めたのに対し、「主は生きておられる。主がサウルを打たれるだろう。時が来て死ぬか、戦に出て殺されるかだ。主が油を注がれた方に、わたしが手をかけることを主は決してお許しにならない。今は、枕もとの槍と水差しを取って立ち去ろう。」と語り、サウルを討つことをしなかった。これはダビデの信仰によるのである。
 私たちは自分に不都合な上司や関係者がいる時、密かにその人の退位や退任を願い、あるいは画策するようなことはないであろうか。聖書は「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう(ロマ 13:1-2)」と語っている。上に立つ者を裁くのは私たちの行うべきことではない。パウロは「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります(ロマ 12:19)」心をこめて神と神によって立てられた方に従おう。
 

 

2013/2/19(火)担当 高谷満世師 サムエル記下24:18-25 賛美聖歌602
 24章ではダビデが人口調査を行い、それが主にそむくことであったがゆえ神の裁きを受けたことが記されている。ダビデは三つの裁きの選択肢の中から、直接神の手にかかることを選んだ。主の御使いが民を打つのを見たダビデは思わず主に叫び、自分が罪を犯したのだから、自分を裁いてくださいと訴えた。
 その日、ダビデは主に祭壇を築くよう指示された。祭壇を築くためにダビデは必要な麦打ち場を購入しようとした。そのとき、土地の所有者は土地と祭壇を築くために必要なすべてを無償で提供することを申し出たが、ダビデはそれを辞退し、必要なものを購入して主に犠牲をささげた。それを通して主はダビデの祈りに答え、疫病は病んだ。主の目にかなうことを行い、それが受け入れられたのである。
 この買い取られた土地が、後に正当な礼拝の場所となる。ダビデが罪を犯したために、神の裁きを受けたその場所が、ダビデの悔い改めと服従を通して礼拝の場所へと変えられる。
 

 

13/2/20 (水) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 11: 32−34 賛美 聖歌521
続いて著者はサムエルを取り上げる。サムエルについても、旧約聖書歴史書に詳しく記されているので当該各書を取り上げる機会に委ねるが、一か所サムエル記上15章の記事について考察しょう。サムエルは自分に与えられた主のことばによってサウルをアマレクとの戦いに送り出した。その際主は「行け。アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ。容赦してはならない(?サム15:3)」と命じられた。サウルは主によって大勝利をおさめたが、羊と牛の最上のもの、初子ではない肥えた動物、小羊、その他何でも上等なものは惜しんで滅ぼし尽くさなかった。これらの分捕り品を率いて得意満面で凱旋したサウルは、サムエルに「兵士がアマレク人のもとから引いて来たのです。彼らはあなたの神、主への供え物にしようと、羊と牛の最上のものを取って置いたのです。ほかのものは滅ぼし尽くしました。」と報告した。これに対しサムエルは「主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる」と語っている。肉の判断による行いではなく、御言葉に従うことこそ信仰であり、主に喜ばれることである。
 

 

2013/2/21)担当高谷満世師 列王記上1:1-53 賛美 聖歌520
 列王記上の冒頭に、ダビデの王位継承をめぐる一つの出来事が記されている。ダビデは年老いて弱っていた。王国の深刻な問いは、誰がダビデの王位を継ぐのか?ということであった。
 行動を起こしたのはアドニヤであった。王位継承順位から言えば、彼はソロモンよりも上位であった。ソロモンではなく、アドニヤが継承するほうが理にかなっていた。しかし、ナタンとバト・シェバが行動を起こし、最終的には誓われていたとおりにソロモンが王となった。この一連の出来事の中で、人々は自分の夢と野心を実現しようとさまざまな策を講じる。政治的な駆け引きが激しく繰り広げられている。しかし、最終的には神の御心が行われた。
 政治の世界と神の業、あるいは日常生活と神の導きがかけ離れているように見えるのが常である。しかし、人間の思惑だけで操作されているように見える状況においても、神は確かに支配しておられ、あらゆることを用いてご計画を進められる。
 

 

2013/2/22(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙11: 32−34 賛美 聖歌564
 更に著者は預言者について語る。預言者たちについても、詳しくは各書をひもとく時に譲ることとして、この箇所では王上18章のエリヤとバアルの預言者の対決の記事を取り上げたいと思う。主に対する信仰とイゼベルによって持ちこまれたバアル信仰との間で揺れ動くイスラエル人に対しエリヤは「我々に二頭の雄牛を用意してもらいたい。彼らに一頭の雄牛を選ばせて、裂いて薪の上に載せ、火をつけずにおかせなさい。わたしも一頭の雄牛を同じようにして、薪の上に載せ、火をつけずにおく。そこであなたたちはあなたたちの神の名を呼び、わたしは主の御名を呼ぶことにしよう。火をもって答える神こそ神であるはずだ?列 18:23-24)」と提案する。民は皆、「それがいい」と答え、準備がなされた。バアルの預言者たちは必死に祈るが、バアルは答えない。エリヤが祈ると、神は直ちに火をもって答えられ、主が真の神であることを示された。このことはエリヤの信仰に基づくのである。わたしたちの神は生きておられる。信仰をもって呼び求める時、答えてくださる。
 

 

2013/2/23(土)高谷由紀子師 マルコによる福音書2:13−17 賛美 聖歌471
 イエスは、徴税人であって召しに応えて弟子となったレビの家、で食卓についておられた。主の弟子たちとともに、多くの徴税人や罪人も同席していた。これを見たファリサイ派の律法学者は弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。当時、ユダヤ社会では徴税人は罪人(宗教的に)とみなされ、神の前に義人と自負するファリサイ人や律法学者たちは彼らと交わりをしなかった。だから徴税人や罪人と一緒に食事をするイエス様の姿に眉をひそめたのである。これに対しイエスは「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と答えられた。主イエスは罪人の救いのために来られたお方であり、救いにあずかるのは自らの罪を自覚し神の前にへりくだる人である。