2013/12/30-2014/1/4

2013/12/30(月) 担当 高谷清師 ?コリ3:18-23賛美 新聖歌324

 続いてパウロは「だれも人間を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのものです。パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。」と述べて、コリントの人たちが、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」などと言い合って分派争いをしていることに対して、それが愚かしいことであることを示そうとしている。「わたしはパウロにつく」と言っている人々にとってはパウロが自分の教師であってアポロやケファは自分の教師ではなく、「わたしはアポロに」と言っている人々にとってはアポロが自分の教師であってパウロやケファは自分の教師ではなく「わたしはケファに」と言っている人々にとってはケファが自分の教師であってパウロやアポロは自分の教師ではないことになる。しかし実際は「パウロは植え、アポロは水を注いだ」のであり、ケファもまた、主から与えられた召しに従い、教会に仕えたのである。従ってパウロもアポロもケファも彼らのものである。小畑進師は「今日、ルーテル主義者といい、カルグアン主義者といい、ウエスレー主義者といって、あれこれの教理的相違のゆえに一をとって他を謗るの徒は、聖なる神の人たちが、みなこぞって私たちの財産であることを忘れるもので、残念と言わねばなりません。」(小畑進コリント人への手紙第一提唱P148 いのちのことば社)と述べておられる。聖霊の導きの中で、神が教会に与えてくださった偉大な指導者を糧として健全な信仰を形成しょう。

 
2013/12/31(火)担当 ラウジー満世師 列王記下16:1-4 賛美354 新聖歌485 
 ユダの王アハズについて記されている。私たちはアハズ王については聖書の他の箇所からもしばしば聞いている。イザヤ書にもここに記されている北イスラエルとアラムが同盟を組んでユダを攻めようとした戦いに際してのアハズの対処が否定的に記されている。しかし、私たちは列王記を読むとき、イザヤ書や歴代誌でのアハズに対する評価を持ち込んではいけない。
 この章の始めにアハズについての総合的な評価が示されている。ここでも南王国の王たちの評価基準は彼らの父祖ダビデであった。アハズ王はダビデと異なり、主に従わなかった。彼の生涯を総合的に評価するに当たり、アハズは神の目にかなわなかったことが記され、子どもをいけにえとしてささげるという悪を行った。これらの基準はアハズの時代より前に、申命記において神が明確にイスラエルに求められたものであった(申命記18:9-10)。
 神を信じる人々が歩むべき道は御言葉の中にすでに明記されている。私たちはそれを学び、知り、この基準に見合う歩みをしていかなければならない。「そのような基準は知りませんでした」という言い逃れは通らない。御言葉を学び、神の目にかなう歩みを続けよう。
 

2014/1/1 (水) 担当 高谷清師 ?テサ5:16-18賛美 新聖歌196

2014年、明けましておめでとうございます。新年の年頭に当たり、皆様方は主にあってどのようなヴィジョンを描かれたでしょうか。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」これが私どもの教会に与えられた御言葉です。この御言葉は、激しい迫害下において信仰の戦いを強いられていたテサロニケの教会に書き送ったパウロの手紙の一節です。

この年、私たちを取り巻く情勢を見るとき、信教の自由の中で、誰にとがめられることのない信仰、伝道の自由、があるように見える中で最も厳しい迫害―世からの福音・教会の無視がある。加えて、戦前戦中の治安維持法への一里塚の感のある特定秘密保護法の強行成立、総理大臣の靖国神社参拝等、風雲急を告げる動きが顕著である。更なる不安は、平穏ムード下における信仰の弱体化がある。このような情勢に対処するためには、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝すること、とりわけ、御言葉に固く立ち、絶えず祈ることが必須である。

 
2014/1/2)担当 ラウジー満世師 列王記下12:1-22 賛美 新聖歌325 
 北イスラエルとアラムがユダを攻めたとき、アハズがアッシリア王に助けを求めたことはイザヤ書にも詳しく記され、そこではアハズ王の行為が激しく非難されている。あまりにもそのことが印象に残っているがゆえに、列王記を読むときにこのアハズの行為が悪と評価されるという前提で読む。しかし列王記ではアッシリアに助けを求めることは非難されていない。事実として述べられ、その結果シリアがユダを攻めることがかなわなかったとされている。アハズの生涯は確かに肯定的には評価されていない(16:2-3)にもかかわらず、アハズがダマスコで見た祭壇をエルサレムの神殿に作り、そこでいけにえをささげたことについては非難をされてもいない。
 列王記でのアハズは総合的に生涯を振り返って悪を行ったとされてはいるが、個々の行為については決定的な悪という判断は下されていない。アハズは個々の出来事において神に従い祝福を受けるか、あるいは主に逆らい悪とされるか、まだ選択する余地を持っていた。私たちもアハズ同様、日々の歩みの中で二つの選択肢を前にして生きている。今日私たちがどのような選択をし、どのように歩むかは常に開かれている。今年も一日一日神の言葉に耳を傾け、導きによって正しい歩みをさせていただこう。
 

2014/1/3(金) 担当 高谷清師 ?テサ5:16-18賛美 聖歌296

 私たちを取り巻く今日の情勢に対処するためには、「いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝すること、とりわけ、御言葉に固く立ち、絶えず祈ることが必須である」と述べた。このことは多くの人々によって認識されているようである。実際、私の周囲でも多くの祈祷会が開かれている。しかし、昨年はほとんど出席しなかった。第一のタイプはこうである。聖書の奇跡物語を取り上げ「祈りによってこうなった、私たちもこう祈ろう」というタイプである。私は聖書の奇跡物語も神の全能も否定するものではない。しかしそこには、神との対話と導きがあるのであって、これを無視してはならない。第二のタイプは「祈祷課題」なるものを作成し、組合運動盛んなる頃の労組の決起大会のごとく喚き散らす行為である。「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます(ヤコ 1:5)」という、神の約束を否定するものではないが、このタイプの祈祷会には躊躇せざるを得ない。

 祈りは神の憐れみによる、神との対話である。人格と人格、否、十字架の贖いの恵みを基盤とする神格と人格の対話である。どうぞお話しください。僕は聞いております?サム3:10)」と、主の語りかけに耳を傾け、それに対して信仰の応答をすることである。その時、喜びと感謝が伴う。
 
2014/1/4(土)担当 高谷由紀子師 マタイ 7:21-23賛美 新聖歌252

 日々平穏無事に過ごしていてもある日、突然病に襲われたり、予期せぬ災難に見舞われることがあります。そのようなとき、慌てふためき、右往左往するのが人の常です。しかし御言葉は「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」と述べています。そして「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」と約束しています。肉なる私たちは、一寸先は闇です。しかし主は愛にして全能なるお方であり、勝利者です。このお方にすべてを委ね、祈りと感謝をもって日々を過ごしましょう。