2014/1/27-2/1
- 2014.01.27
- ディボーションの友
2014/1/27(月) 担当 高谷清師 ?コリ4:6-7賛美 新聖歌 316
パウロは、改めて「兄弟たち」と呼びかけ、自分自身とアポロに当てはめて述べてきたのは、第一に、彼らが「書かれているもの以上に出ない」こと、第二には、だれも、一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶることがないようにするためであった。第一の点について考えてみよう。「書かれているもの」とは、解釈者各々において様々な意見があるが、聖書とみてよいであろう。パウロは先に『この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。「神は、知恵のある者たちをその悪賢さによって捕らえられる」と書いてあり、また、「主は知っておられる、知恵のある者たちの論議がむなしいことを」とも書いてあります』(?コリ3:19-20)と述べたが、コリント人は福音に自分たちの知恵を加えて、人を崇めていたのである。これに対してパウロは「ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます」(?コリ4:5)と述べて、神こそが全知であり、崇められるお方であることを示したのである。従って、私たちは決して聖書を超えないようにしょう。それがどんなに人々を駆り立てる言葉であったとしても・・・。
2014/1/28 (火) 担当 ラウジー満世師 列王記下19:14-19 賛美 新聖歌364
アッシリアの王センナケリブの使者は、真の神をののしり続け、ユダの民とヒゼキヤに対してアッシリアに屈するようにと語り続けた。ヒゼキヤは当時、軍事的に圧倒的な力を持つアッシリアからの脅迫に対して、ユダの弱さを知りながらこの脅しを聞いた。ヒゼキヤが信じる真の神があざけられることは彼にとっても耐え難い苦痛であり、怒りを抑えられなかっただろう。このときヒゼキヤは感情に任せて自分で報復をしに行ったり、あるいは相手の脅しに屈したりはしなかった。この場にあってもなお彼は神の前に祈った。そして祈りの中でヒゼキヤは問題の核心である真の神への挑戦をしっかりと見抜き、そして真の神をあざける人々に対して主だけが神であることを知らせてくださいと祈った。
真の神に対する侮辱と挑戦はさまざまな形で私たちにももたらされる。感情的になって自ら報復するのではなく、常に神のもとへ問題を携えていき、祈ろう。権威を持っておられるのは真の神である。あらゆる状況において神の御心が顕され、すべての人々が主の権威を認め、主を知るに到るよう祈ろう。
2014/1/29 (水) 担当 高谷清師 ?コリ4:6-7賛美 新聖歌 399
第二の点「だれも、一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶることがないようにするため」について学んでみよう。コリント人は「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケパに」「わたしはキリストに」と言い合って互いに他方に反対し高慢になって分派対立を深めていた。レオン・モリスは『クリスチャンが霊的な人々の行使する指導力を正当に享受してよいということには、一理がある。しかし、一人の指導者を好むあまり、「他方に反対する」なら、境界線を踏み越えてしまったことになる。これが、分派の悪なのである』(ティンデル聖書注解コリント人への手紙1P87)と述べている。パウロは「目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです(?コリ12:21-22)」と述べている。互いに主に在って各々を認め合い、尊重し合い魂の救いのために仕えよう。
2014/1/30 (木) 担当 ラウジー満世師 列王記下19:20-34 賛美 新聖歌392
神は預言者イザヤを通してヒゼキヤの祈りに答えられた。第一に、神は確かに驕り高ぶるアッシリアを見られ、そしてはるか昔から計画しておられたように高ぶるアッシリアをうち砕かれると約束された。強大なアッシリアではあるが、どれほど驕り高ぶってみても、神に対しては何の力もない。真に力を持ち、支配しておられるのは主なる神だからである。さらにヒゼキヤに対して穀物の成長のしるしを用いてユダの回復を約束された。最後に今エルサレムを包囲しているアッシリアの包囲が解かれると約束された。
どのような状況においても神はご自分を信じて従う者を省みられる。私たちは御言葉を通して神が力ある真の神であることを知っている。全能の神であり、唯一の神であることを知っている。この知識を実際に信仰として働かせつつ日々生きているだろうか。今日も力ある生ける神が私たちと共に居られる。
2014/1/31(金) 担当 高谷清師 ?コリ4:6-7賛美 新聖歌 165
互いに自分を誇っているコリント人に対してパウロは「あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか」と問いかける。このパウロは「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです(?コリ15:10)」と語っている。私たちは罪のために死んでいた者であった。そのような者を神は尋ね出し、御子の血潮によって罪から救い、神の子とし、神に仕える者としてくださった。私たちが今在るのは唯神の恵みによるのである。それ故、私たちは一切、誇るものを持たない。自分が「無」であることを認識した時、はじめて神を誇ることができるのである。そのためには、日々主の十字架の前に立つことである。
2014/1/25(土) 担当 高谷由紀子師 マタイ18:1-4賛美 新聖歌408
イエスが、会堂長ヤイロの求めに応じてその家に向かわれる途上においての出来事が記されている。十二年間にわたって病んでいた一人の婦人がいた。多くの医者にかかり、全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえず、失意の中にあった。その頃、多くの人を癒されたイエスの噂を聞き、イエスに最後の望みをかけていた。そこにイエスが通りかかられたので、彼女は恐る恐る、その衣に触れた。すると、直ちに癒された。主は、恐れおののく彼女に向かって「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」と言われた。
神の恵みは信じる者の上に豊かにあらわされる。日々、信仰によって歩みましょう。
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