2014/2/3-8
- 2014.02.03
- ディボーションの友
2014/2/3(月) 担当 高谷清師 ?コリ4:8賛美 新聖歌363A
パウロはコリント人の状態を見て「あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています」と皮肉っている。当時、コリント人は世の知恵を受け入れ、使徒たちの教えを排してストア派の理念である自己充足「われのみ豊かなり。われのみ王なる支配者なり」に、ますます接近し、(ティンデル聖書注解コリント人への手紙1P88)勝手に自己満足に陥っていた。これに対してパウロは「いや実際、王様になっていてくれたらと思います。そうしたら、わたしたちも、あなたがたと一緒に王様になれたはずですから」と言っている。このような状態に対して主は「あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない(黙 3:17)」と語っておられる。私たちも日常生活において世の基準を適用し、同じことをしていないだろうか。このような過ちに陥ることを防ぐのは、日々、謙虚に御言葉に前に立つことである。
2014/2/4 (火) 担当 ラウジー満世師 列王記下19:32-37 賛美 新聖歌282
18:13から記されているアッシリアの王センナケリブのヒゼキヤに対する挑戦の最終部分である。アッシリアはエルサレムを包囲している。しかしこれは単なるアッシリアから南王国への挑戦ではなかった。19:10に見られるように、アッシリアの使者はイスラエルの神に対して挑戦し、神にはイスラエルを守る力がないと脅したのである。それに対してヒゼキヤは神にその状況を訴えた。今、神はヒゼキヤの祈りに答えて一晩にして主の御使いによって、不思議な方法でエルサレムを守られた。まさに神の力が証明された。一方アッシリアでは彼らの神の神殿の中でセンナケリブが殺害された。
アッシリアの使者はイスラエルの神をののしり、神にはイスラエルを救う力がないと語った。しかし実際には神はイスラエルを守られ、アッシリアの偶像はそのお膝元にいる王をも救うことができなかったのである。今日でも神に対する挑戦は形を変えて存在する。まことに力ある神とともに歩み続けよう。
2014/2/5 (水) 担当 高谷清師 ?コリ4:9賛美 新聖歌346
パウロは使徒の状態を「まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです」と語っている。パウロは福音の故に鞭打たれ、投獄され、石打ちにされ、見せ物にされ、嘲りの的とされた。それを見たのは世界中のもの、天使も人もであった。パウロの苦難を見た者のすべてがパウロを嘲笑の的としたのではない。主イエスの十字架の時、十字架上の主イエスを嘲り罵倒する多くの人々の片隅にあって、主から片時も目をそらさず、注視し続けた気丈な母マリア―彼女の心には主の受胎の時、誕生の時、献児の時・・・折にふれ語られ、心に留めていた預言の言葉が去来していたであろう―、天から注がれる愛に満ちた父の目線、天使の目があったように、パウロの苦難を支える主の愛、聖徒の感謝の目もあったであろう。パウロはそれらすべてを神からのものとして受け止めた。
今の世に生きる聖徒たちも、伝道者として召されたものであれ、一般の信徒であれ、主から各々のポジションを与えられている。世に在って日の当たるポジションもあれば、日陰で労苦と忍耐を強いられるポジションもある。しかしそれらすべてが主から与えられたものであると受け止め、全力を注いで仕えよう。
2014/2/6 (木) 担当 ラウジー満世師 列王記下20:1−11 賛美 新聖歌389
アッシリアのセンナケリブ王からの挑戦に続いてここにもまたヒゼキヤに突きつけられた厳しい状況が記されている。今度はヒゼキヤ自身の命にかかわる問題であった。深刻な病に罹ったとき、ヒゼキヤは再び人ではなく神と向き合い、神に祈った。ここにもヒゼキヤの、ひたすら神を信じ神に頼る信仰が現れている。涙をもって祈る彼の真実な祈りを聞いて神が答えてくださり、預言者イザヤを通して病の癒しと15年間の延命が告げられた。それと同時に神の前にヒゼキヤが出ることができるというしるしもまた与えられた。影が十度後戻りすることは提案されたしるしの中で、より困難なしるしであった。それでも神は確かにそのしるしを与えられた。
私たちは困難に直面したときに神に祈る。神と人との関係において、祈るという行為は私たちの思いと必要を神に訴えるということである。しかし祈るという行為、すなわちパフォーマンスが最重なのではない。祈りにおいて心から神により頼むことが必要である。また、しるしを通して神の力が示されたように、神は全能であるということを覚えて祈ることが大切である。
2014/2/7(金) 担当 高谷清師 ?コリ4:10賛美 新聖歌394
パウロは「わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています」と語る。コリント人は世の知恵を教会に持ち込むことによって、キリストを信じて賢い者となり、強い者となり、尊敬される者となっていた。しかしパウロは世の知恵を拒み、神の知恵―福音を堅持するが故に愚か者とされ、弱い者とされ、侮辱されていた。
今日においてもキリスト者と自称しながら、御言葉を捨て、世の知恵によって歩む者どもが世の称賛を受け、賢い者となり、強い者となり、尊敬される者となっているのである。しかし主は終わりの日に明らかにされるであろう。主は「勝利を得る者に、わたしの業を終わりまで守り続ける者に、わたしは、諸国の民の上に立つ権威を授けよう(黙 2:26)」と言われる。最後まで御言葉に忠実に歩もう。
2014/2/8(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 6:1-6賛美 新聖歌408
主イエスは故郷に帰って安息日に会堂で教え始められた。それを聞いた人々は驚いて「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か」と言ったが、幼い時からイエスを知っていた故に、それらの知恵と奇跡を見てもイエスを神の子と認めることができなかった。私たちに求められるのはイエスを霊によって知ることであり、信仰によって受け入れることである。聖霊の導きの中御言葉を学び、祈ることが大切である。
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