2014/2/24-3/1

 2014/2/24(月) 担当 高谷清師 ?コリ4:18-21賛美 新聖歌394

 パウロが伝え聞いたコリントの現状を述べている。彼らはパウロたちが去った後入り込んできたこの世の知恵をもって教える教師たちの教えに酔い、高ぶっていた。彼らは、「満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になって」いた。この教師たちは美辞麗句を並べ、流暢に語った。しかし一部のコリント人たちが「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」(?コリ 10: 10)と言っていたように、パウロの語り方は地味であった。それ故、コリント人たちは、パウロが自分たちのところに来ることはないと、高を括くっていたのである。それに対してパウロは「主の御心であれば、すぐにでもあなたがたのところに行こう」という。
 私たちはパウロが付した「主の御心であれば」という句に注意しなければならない。パウロは主に召され、仕える主の僕であった。私たちもまた主の僕である。僕は自分の意志ではなく、主の御心にのみ従って動くものである。主でさえも「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする」と語っておられる。私たちは自分の思いではなく、主の御心に従う者となろう。
 
2014/2/25 (火) 担当 ラウジー満世師 列王記下22:14-20 賛美 新聖歌361
 律法の書の言葉を聞いて衣を裂いた王は女預言者フルダの元へ人を遣わして神の御心を求めた。フルダを通して主は答えを与えられた。ヨシヤが主の前に心を痛めてへりくだったことを主は受け入れてくださり、彼に安らかな死と最終的にユダに対して下される災いを見ることがないという約束を与えてくださった。神は哀れみ深い。しかし同時に見過ごしてはならないことがある。ヨシヤの生きている間におこるユダへの最終的な裁きは遅延が保障されたが、しかし律法の書に従って下されるユダに対する神の裁きは撤回されなかった。
 私たちの悔い改めはあくまで私たちが個人として神と向き合い、神との関係において持つ心のありようであり、へりくだりである。それは神との取引の道具や憐れみを引き出す対価ではない。神は愛であり、憐れみ深く、赦してくださるお方であると私たちは御言葉を通して知っている。しかし、神は同時に主権を持ったお方であり、私たちが神とのあるべき関係において誠実であることを求められるのである。神と取引や駆け引きをする信仰ではなく、真心をもって主とともに歩む信仰生活を歩もう。
 

2014/2/26 (水) 担当 高谷清師 ?コリ4:18-21賛美 新聖歌414

 続いてパウロは「高ぶっている人たちの、言葉ではなく力を見せてもらおう。神の国は言葉ではなく力にあるのですから」と述べる。ここで言われている言葉とは、この世の知恵によって語る人の、口先だけの空しい言葉のことである。カルヴァンは「口のたつ人があって、雄弁に語ることができるという場合にも、その人の言葉がただ空中にむなしくひびいて行くだけのことにすぎなかったならば、それはどんなにかつまらないことであろうか」(カルヴァン新約聖書注解?コリント前書P116)と述べている。神の国は、人に神の国の民として何をなすべきかを教えるだけではなく、それを行う力を得させるものである。それは信仰により、聖霊によって私たちに与えられるものである。
 
2014/2/27 (木) 担当 ラウジー満世師 列王記下23:1-25 賛美 新聖歌349
 ヨシヤは律法の書を通して悔い改めへと導かれた。そしてその悔い改めは神に受け入れられたが、一方でマナセの罪のゆえに神が定められたユダへの裁きは撤回されることはないとされた。しかしヨシヤはこの状況によって左右されることはなかった。彼の悔い改めは心からのものであり、それゆえ外見上のポーズにとどまることはなかった。
 23章においてまずこの発見された契約の書が民の前で読まれ、契約を実行するという誓いがなされた。さらにそれに続いて国中に蔓延していたあらゆる偶像礼拝を撤廃した。それは分裂王国時代だけではなくソロモンの時代にまでさかのぼる偶像礼拝の排除という徹底したものであった。その後さらにダビデの時代以前から行われてこなかった過越祭が回復された。
 悔い改めはまず神の言葉を聞くことを通して神に従う人の心の中で起こる出来事である。そしてその人の信仰という内面における変化は行動の変化、事態の改革という外側の変化として現れる。信仰にはそれを力の源泉として行動や生き方の変化が現れる。今日の私たちのクリスチャン生活でそれは見られるだろうか。
 
2014/2/28(金) 担当 高谷清師 ?コリ4:18-21  賛美 聖歌490
 パウロは「あなたがたが望むのはどちらですか。わたしがあなたがたのところへ鞭を持って行くことですか、それとも、愛と柔和な心で行くことですか」と問いかける。パウロは先に「こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すためなのです。キリストに導く養育係があなたがたに一万人いたとしても、父親が大勢いるわけではない。福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけたのです」と書いた。父は子を、いかなる養育係よりも愛する。その愛は子の健全な成長を願うのであり、そのために諭し、叱り、鞭を加える。コリントの人々が本書によって与えられた諭しの言葉に応えるなら、パウロは愛と柔和な心で行くことが出来る。そうでなければ鞭を持って行かなければならない。パウロの望みは愛と柔和な心で行くことである。
 長いクリスチャン生涯においてはこころならずも失敗することがある。躓くことがある。しかし、どんな失敗の時にも倒れてはならない。主から離れてはならない。主にすがり、より頼むことが大切である。パウロはロマ書において「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう」(ロマ11: 22)と語っている。
 

2014/3/1(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 5:21-24賛美 新聖歌315

 会堂長でヤイロという人がいた。彼には地位があり、社会的にも重んじられ、尊敬されていた。彼の大切な娘が重病にかかって死に直面していた。ヤイロは父親として、娘の病が治ることを願って様々な手を尽くしただろう。しかし、娘の病はひどく、命の危険な状態にまでなった。そのときにヤイロはイエスに助けを求めた(23節)。ヤイロは自分で出来る限りの努力をしたが、万策尽きた時にただあきらめたのではなかった。このような状況においてさえ必要な助けを与える権威をもっておられる主のもとに来て癒しを願った。ここにヤイロの信仰がある。彼は主が病に対しても癒す権威をもっておられることを信じた。その結果、娘は癒されたのです。私たちも主があらゆることに対する権威を持っておられる方であることを信じて、主により頼もう。