2014/3/17-22

 2014/3/17(月) 担当 高谷清師 ?コリ5:1-5賛美 新聖歌 446

 コリント教会は多くの人々が集い、霊の賜が豊かに与えられ、経済的にも豊かな教会であった。しかしそのうちには「みだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしている」といった罪がはびこっていた。にもかかわらず、コリント教会は罪を取り除くことをせず、表面的な繁栄に酔い、奢り高ぶっていた。これに対してパウロは「あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか」と警告している。癌は初期には小さな存在であるが、放置すると生命をも損なうのである。罪も小さいものだ、と見過ごすなら、やがて人の霊的生命を損ない、キリストの体である教会を破壊するのである。罪はどんな小さなものであっても、気づいたなら直ちに悔い改め、主の赦しを乞い、常に御前に清い歩みを続けよう。
 
2014/3/18 (火) 担当 ラウジー満世師 列王記下24:8-17 賛美 新聖歌427
 ユダの末期の王、ヨヤキンについて記されている。ヨヤキンについても彼の父同様に主に従わなかったことが短く述べられる。そしてこの箇所の終わりには彼がバビロン捕囚として連れ去られたことが記されるのみである。この箇所で特に何度も記され、私たち注意をひく言葉は「バビロン」である。バビロンが力を盛り返し、再びユダの脅威となった。瞬く間にバビロンはエルサレムを包囲した。今回はヒゼキヤの時のように王が神の前に祈ることもなければ、奇跡的な解放もなかった。ただただ主が定め、「主が告げられたとおり」(24:13)に淡々とことが進み、エルサレムは敵に立ち向かうすべもなく滅びへと向かう。
 確かに「主が告げられた」事は成る。確かに目の前で起こる全てのことを支配しておられるのは神である。神は良いことが起こる時だけではなく、自分にとって好ましくないことが起こる時にも神である。今日も主を私の、また歴史の主として知り、畏れ、従おう。
 

2014/3/19 (水) 担当 高谷清師 ?コリ5:1-5賛美 新聖歌 225

 続いてパウロは「いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい」と勧め「現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです」と述べる。それは「キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたから」である。他の箇所では「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた(?コリ5: 17)」と述べている。御子が十字架の血潮によって私たちのすべての罪を清め、御子を信じる者をパン種の入っていない者として新しく造ってくださったのである。従ってキリストを信じる者はパン種の入っていない者である。しかし、罪の支配する世に肉をもって生きる私たちには世の罪が付着する。主が弟子たちの足をあらわれたとき、ぺトロは「主よ、足だけでなく、手も頭も。」と言った。それに対し主は「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。(ヨハ 13:9-10)」と言われた。それ故、常に主を仰ぎ、御子の血によって付着する罪を洗っていただき、清く御前に歩もう。
 
2014/3/20 (木) 担当 ラウジー満世師 列王記下24:18-25:21 賛美 新聖歌372
 ユダの最後の王、ゼデキヤとその時代についての記事である。彼もまた決して主に立ち返ることがなかった。悪を行い続けた。そしてユダにはもう逃れる道がなかった。まさに記されている様にエルサレムはついに「御前から捨て去られることになった」(24:20)のである。バビロンによってエルサレムは陥落し、王の子らは殺され、ユダの為政者たち、指導者たちはバビロン捕囚となり、国に残ったのは力のない民だけであった。かつて神がヒゼキヤに告げられた通りに王宮の財産はすべて運び去られた(20:17)。
 神に選ばれ、愛されたユダがこの様な最期を迎える姿を見るのは非常に心が痛む。そしてまた、納得できない気持ちになる。しかし、神が何度も警告しておられるにもかかわらず、罪を離れず、神に背き続ける民に対して、神は裁きをはっきりとなされるお方である。私たちが信じて従う神は愛の神であるが、甘やかして民をダメにする神ではない。それ故に神との関係に生きる私たちは日々神に聞き、神の導きに従って歩むことが求められている。
 
2014/3/21(金) 担当 高谷清師 ?コリ5:1-5  賛美 新聖歌 390
 この項を終えるにあたってパウロは「だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか」と述べる。イスラエルでは奴隷の家、エジプトから出た日を記念して過越しの子羊を屠り、それに続く七日間、酵母を入れないパンを食べ、全領土から酵母を取り除いた。過越祭、除酵祭である。
御子イエスが神の子羊として十字架にかかってくださって以降、もはや年ごとに子羊を屠ることはしない。御子は永遠の子羊だからである。このキリストの恵みに生かされる私たちには、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝うこと、真実と誠をもって御前に生きることが求められているのである。世はだましだまされ、虚偽と謀が横行するのである。しかし主に在る兄弟姉妹の間ではそうであってはならない。
 

2014/3/22(土) 担当 高谷由紀子師 マルコ 6:45-52   新聖歌339

 イエスは大勢の群集の、飼い主のいない羊のような有様を見て深く憐れみ、教え、食物を与えた後、弟子たちを船に乗せて向こう岸のベトサイダに向けて船出させ、その間に群集を解散させ、祈るために山へ行かれた。夕方になって湖を見られると弟子たちの船は逆風のため漕ぎ悩んでいた。そのため、主は歩いて弟子たちのところに近づかれた。水の上を歩いておられる主を見て弟子たちは幽霊だと思い、大声で叫んだのである。そこで主は「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言い、イエスが舟に乗り込まれると、風は静まった。それを見て弟子たちは心の中で非常に驚いたのである。これについてマルコは「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである」と述べている。弟子たちは主と共にあって数々の不思議と主の御業を体験してきた。しかし彼らはそれらから学んでいなかったのである。私たちも主と共に歩むとき、主の恵みの御業を体験する。私たちはこれらを通して学び、糧とし、信仰を強められることが大切である。パウロは「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません(?コリ6:1)」と述べている。