2014/6/9-14
- 2014.06.09
- ディボーションの友
2014/6/9(月) 担当 高谷清師 ?コリ7:29-31 賛美 新聖歌 148
パウロは「定められた時は迫っています」と述べる。この「定められた時」について注解者たちは①迫り来る迫害・苦難の時、②近づきつつある死、③キリストの再臨・審判の時と解している。初代のキリスト者は常に迫害の危険の中に生きていた。それは常に死の危険を伴っていた。またパウロが「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。(ロマ 13:11-12)」と述べているように、初代のキリスト者達は常に再臨を意識して生きていた。そのような状況の中でパウロは「今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです」と語るのである。今の時代を考えるなら、再臨・審判の時は使徒の時代よりも迫っていることは確実である。また、最近の動き、秘密保護法、集団的自衛権容認、等々忍び寄る迫害・苦難の足音にも細心の注意を払わなければならない。主は言われる「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである(マコ 13:32-33)」と。
2014/6/10 (火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌上13:1-8 賛美 新聖歌282
12章の終わりにはヘブロンに戦士たちが集まり、ダビデを王として迎え、喜んだ。続く13章ではいよいよダビデの治世について語り始められる。歴代誌は王としてのダビデの最初の事業として神の箱をエルサレムに迎え入れることを記している。ダビデはその生涯を通じて神殿建築を望み、神殿での祭儀の基礎の形を整えている。そのようなダビデを考えるときに彼が最初にこの事業を行いたいと望んだことはよく理解できる。
ダビデは神の箱を運び込むにあたり千人隊と百人隊の長、そしてすべての指導者と協議している。彼らは賛成したが、この決定では民の目に良いこと、ダビデが望むことが重視されている。ダビデ自身やほかの指導者たちが神の御心を求めて祈ったり預言者に問うたりすることがなかった。もちろん神の箱をエルサレムに移すというダビデの望みと指導者たちの決定は悪意から出たものではなかった。しかし彼らにとって大切にすべき神のご計画、御心がここでは問われていない。
私たちも何か行動を起こすとき、自分の思いだけに従って行動するのでは不十分である。自分の思いではなく、神の御心を常に求めていくこと、そしてそれを知ったならば神の御心を優先して行動することが大切である。
2014/6/11 (水) 担当 高谷清師 ?コリ?コリ7:29-35 賛美 新聖歌 465
定められたがは迫っている時代に生きるキリスト者の生き方についてパウロは「妻のある人はない人のように」生きなさいと言う。それについて「独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います」と述べる。結婚は神が制定された、私たちへの素晴らしいめぐみであり祝福であった。しかし結婚した男女は互いに相手に喜ばれようと気を遣い、神を第一とする生き方から離れやすいのである。パウロはこのことを戒めている。結婚している者は、互いに伴侶は主から賜ったものであることを自覚し、常に主を崇め、主に仕え、主の栄光を顕す歩みをすることが大切である。
2014/6/12 (木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌上13:9-14 賛美 新聖歌366
神の箱は当時の人々にとって特別なものであった。それは箱の中に収められた物の故でもあるが、それに加えてこの箱の上に目には見えないが神が坐しておられると理解されていたからである。箱があるということは目に見えない神の臨在があるということを表していた。だからこそ移送中に民は「神の御前で」(12:8)喜び踊ったのである。
クリスチャンは神の臨在を求める。特に力強い聖霊の働きを求め、体験している人々は神の臨在を喜び、神の力の表れとしての霊的体験を重視する。神の臨在を体験することは大きな恵みである。そして神とともにいる喜びと平安は何にも代えがたい。神は常に近くにおられ、優しい助けの手を伸べてくださる方である。しかし今日の理解不可能に見える箇所は私たちにもう一つの大切なことを思い起こさせる。神はいと近き方であると同時に、聖であり、私たちが畏れるべき方である。旧約聖書の時代に多くの人が神を見ること、神を体験することを恐れた。それは聖なる方に近づき、見るということは汚れた人間にとっての死を表すからであった。
神に大胆に近づけるという恵みと同時に、神は人間のコントロールや完全な理解を超える聖なる方であるということも覚えつつ歩もう。この方の前でこそ私たちは畏れをもって歩むのである。
2014/6/13(金) 担当 高谷清師 ?コリ7:25-28 賛美 新聖歌 148
さらにパウロは「泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです」と述べる。この箇所について小畑進は「泣いたり、笑ったり、買ったり、売ったり、喜怒哀楽・売買交換も、めとり・とつぎと同じく人生の実態ですけれども、それが地上的次元で発散されるだけで、いたずらに消失するのではいけません。泣く者は、その悲嘆の時の短いことを思い、喜ぶ者はその喜びが天においても続くものかとかえりみ、売買する者はその所有が天に積む宝であるかを確かめよ、という余韻を聞きましょう(コリント人への手紙第一提唱P312いのちのことば社)」と述べている。主イエスは「富は、天に積みなさい」と教え、「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ(マタ 6:21)」と語っておられる。パウロは「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません(?コリ15:50)」と述べている。滅びゆく地上の繁栄の追求ではなく、神の国を受け継ぐことのできる富のために生きよう。この世の有様は過ぎ去るからである。
2014/6/14(土) 担当 高谷由紀子師 ルカ 18:35-43 新聖歌 316
盲人は目が見えることを願って熱心にイエスに叫び求めました。先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしましたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けました。その叫びはイエスに届き、イエスは盲人をそばに連れて来るように命じられました。近づいてきた盲人にイエスが「何をしてほしいのか。」と尋ねられると、盲人は「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言いました。それに対して主が「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」と言われると、盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従いました。信仰に基づく、率直で熱心な求めは主に届くのです。私たちも、信仰による熱心な祈りをもって求めましょう。
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