2014/8/25-30
- 2014.08.25
- ディボーションの友
2014/8/25 (月) 担当 高谷清師 ?コリ9:19-23 賛美 新聖歌 396
「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです」と語ったパウロは「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです」と語る。パウロは「キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために(ロマ 10:4)」「こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません(ガラ 3:24-25)」と述べて、キリストが律法を成就してくださったことにより、信じる者は律法から解放されていることを述べている。しかし、その地方に住むユダヤ人の手前、テモテに割礼を授け、誓願を立てていたのでケンクレアイで髪を切った。(使18:18)。これらの行いは、信仰のブレではなく、ユダヤ人を躓かせないためであった。私たちも信仰の根幹を損なわない限りにおいて地域文化への配慮が必要である。
2014/8/26(火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌上25:1-31 賛美 新聖歌339
神殿での奉仕者のリストが続いている。25章には詠唱者の名が記されている。礼拝で賛美の奉仕をする人々が選ばれている。この任に当たったのもレビ人たちであり、彼らには「主に向って歌をうたうための訓練を受け(25:7)」た者達が含まれていた。このように、礼拝における音楽と賛美も非常に大切なものであった。その奉仕に携わる者は適切な教えと指導を受けて整えられたものであった。また、彼らはただ単に賛美を導くだけの役割を果たすだけではなく、音楽を奏でながら「預言をした(25:1)」とされている。モーセの姉のミリアムも預言者と呼ばれ、同時に音楽を奏でる者であった。また、エリシャも音楽を奏でる者を呼びよせて預言をした(列王記下3:15)。この様に預言の働きと音楽は密接な関係にあり、礼拝においても音楽は重要な役割を果たした。
音楽は礼拝において私たちの心を神の前に整え、開かせてくれる。今日の礼拝においても様々な楽器が用いられる。だからこそ、音楽を正しく用いることが必要なのである。奉仕者はこのことを心に留めておかなければならない。会衆もまた音楽によって感情を高ぶらせ、理性を欠いた状態あるいは抑制された状態で雰囲気に流される礼拝をささげることなく、音楽が神への礼拝の補助として用いられ、み言葉によって教え、導かれて神のことばを受け取り、応答する礼拝をささげよう。
2014/8/27 (水) 担当 高谷清師 ?コリ9:19-23 賛美 新聖歌 425
「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです」と語ったパウロの具体的な行動の第二は律法を持たない人のようになることであった。パウロは「わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが」と言っている。主はファリサイ派の一人がイエスを試そうとして発した「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」と言う問いに対して「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」と答えておられる。パウロはこのキリストの律法の中にいた。しかし、律法を持たないアテネの人々には、アテネ人が熟知する詩人や、哲人の言葉を引用して語りました(使17:22−31)。またヘリクス総督には、「正義と節制とやがて来る審判」とを諄々と説いて、総督を恐れしめた〈使徒24:25〉(小畑進コリント人への手紙第一提唱P400いのちのことば社)のである。即ち、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになったのである。私たちもフィールドに即した仕方で福音を提示することが必要である。
2014/8/28(木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌上26:1-32 賛美 新聖歌364
この章でもレビ人の様々な仕事とその任に当たった者達のリストが続いている。まずは門衛のリストである。これは25章のリストと同様に氏族のリストを示したのちに奉仕の順序と担当の門をくじ引きで決定する。レビ人が門衛を務めたというのはいささか驚きかも知れない。しかし民数記などにおいても、聖所を守る守衛はレビ人の仕事であった。さらに、神殿が存在するのであるから、神殿自体を管理し、その財産を管理することが必要である。この仕事もまたレビ人が担った。これは単純な作業であり、また緻密さを求められるものであった。地味な仕事であり、一見、魂を導くことからはかけ離れたことのように感じられる。しかしこの働きもまた神殿とその礼拝を守っていくための重要な働きとしてレビ人にゆだねられたのである。管理の仕事だからレビ人以外の人が携わるというものではなかった。
神は統一王国が誕生して二代目の王、ソロモンの時代に神殿建築を許された。しかし、統一王国の最初のダビデの時代から既に神殿での礼拝を見据えて正しい礼拝が行われるように様々な形が整えられつつあった。正しい礼拝のためには礼拝に出席する一人一人だけではなく、すべてが神の御心に従って行われていくための制度もまた求められるのである。神の前に正しい礼拝が捧げられるよう、あらゆる面に心を砕いて整えていこう。
2014/8/29(金) 担当 高谷清師 ?コリ9:19-23 賛美 新聖歌 428
さらにパウロは言葉を続けて「弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。」と語る。これは真の福音宣教者の姿であり、御言葉を伝える者の模範である。しかし、私たちは弱い存在である。ミイラ盗りがミイラになる愚は避けなければならない。そのためには常に十字架を見上げ、贖いの恵みに留まり続け、常に祈り、聖霊に満たされ、聖霊の導きと力によって仕えることが必要である。
2014/8/30(土) 担当 高谷由紀子師 コヘレト12:1 新聖歌390
若い日にこそ神様を信じなさいと勧められている。現実の社会では「私は今はまだ若いので、自分の力で精いっぱい生きていきます」という若者たちや、「信仰は年をとってこの世の働きがなくなってから考えます」、「子供には信仰のことはわかりません」などという意見を述べる人々が大多数です。しかし聖書は、若い日にこそ神様を信じるべきことを求めています。絵を描くことや歌を歌うこと、料理を作ること、その他いろいろなものを作ることは、失敗してもやり直すことができます。しかし私たちの一生の一部である「昨日」という日は戻ってきません。大人が子供になってやり直すこともできません。あなたの若いとき、今創造主である神様を信じるべきことが人間に与えられたメッセージです。
私たちの周囲でまだたくさんの人々が「まだ大丈夫。信仰については将来考えます。」と言いながら今日も神様を知らないで過ごしています。その人々に大胆に福音を語り、若い日に造り主を知るよう勧めましょう。”,,1161″
-
前の記事
2014/8/18-23 2014.08.18
-
次の記事
2014/9/1-6 2014.09.01