2014/9/1-6

2014/9/1 (月) 担当 高谷清師 ?コリ9:24-27 賛美 新聖歌 465
 パウロは今まで語ってきたことを、当時コリント人の大きな関心事であった競技会に事寄せて語る。競技には多くの選手が出場するが、各競技において賞を得るのは一位の人のみであった。銀、銅はなかったのである。しかし信仰の場合にはそれとは異なる。パウロが「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです(ロマ 10:9-10)」と述べているように、主イエスを信じ、主と告白した人はすべて救われるのである。しかし長い信仰生活の旅程には試練や危機も待ち受ける。主はこれらに言及し、「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる(マタ24:13)」と語っておられる。また、キリスト者が受ける賞(報い)についてはパウロが本書の3:12-15において語っている。私たちはあらゆる試練耐え忍んで終わりの日に賞にあずかる者となりたい。

2014/9/2(火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌上27:1-24  賛美 新聖歌254  
 27章に入ると、レビ人の任命に続いて国の政治体制に視点は移される。最初に述べられるのは軍隊の体制である。軍隊は月ごとに交代する12の組に分けられる。各組の将軍はその名が記されているが、彼らは11章にあるダビデの勇士のリストの中に名がある人々である。ダビデは神に選ばれて油注がれてから実際に統一王国の王になるまで、長い年月をかけ、いくつもの戦いをくぐり抜け、多くの血を流して遂に王になった。それゆえにダビデの神殿建築は神によって許されなかった。それとは対照的に、ダビデが形を整え、ソロモンに譲っていく王国にはすでにダビデの時代に名を知られた勇士たちが将軍としてその名を記されている。ソロモンは経験ある軍隊に守られた、軍事的に安定した体制においてその統治を始めることができた。軍隊に次いで語られる部族指導者(28:16-)においても、すべての部族が例外なく王に仕えている。ここには20歳以下の人口を数え始めたことがよい報告に進まなかったことが正直に記されているが、ここでは以前の人口調査の時(21章)のように神の怒りについての詳細な報告はない。
 ダビデがソロモンに残した王国はその政治的体制においても平和と服従が見られる、安定した王国であった。神殿建築に必要なものは祭儀的な面だけではなく、社会の形という点においても整えられていた。神のご計画に従って歩むときに、一つ一つ必要は整えられていく。

2014/9/3 (水) 担当 高谷清師 ?コリ9:24-27 賛美 新聖歌 391
 パウロは「競技をする人は皆、すべてに節制します」と語る。競技者は飲食物について、生活時間について、その他生活全般にわたって節制をする。彼らは規則に反しない事柄であっても、競技のために益しないもの一切を自制したのである。彼らの受ける賞は、明日には枯れ果てる松のリースであった。しかし最後まで耐え忍んだ者に備えられているのは、パウロが「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます(?テモ4:7-8)」と述べている、永遠に朽ちることのない冠である。それ故、私たちは、明らかな罪だけでなく、私たちに許されているものであっても、霊的成長の妨げとなる一切のものを避けるべきである。

2014/9/4(木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌上27:25-34  賛美 新聖歌299
 27章後半は前半に続いて国の役人たちが記されているが、ここでは財産を管理する者達と王の個人的なアドバイザーである顧問たちの名が列挙されている。彼らは王の近くにおり、王を支える者達であった。財産を管理する者達がその責任とともにしっかりと名を記されている。ダビデの王国は経済的にも安定しており、豊かに祝福されていた。この経済的安定もまた神に選ばれて神に仕えてきたダビデに対して神が与えられた祝福であり、当然次の世代として神殿建築を担うソロモンにとって必要なものであった。
 最後にダビデの個人的なアドバイザーが記されるが、ここは独特な箇所である。ダビデの息子アブサロムが反逆したときに助言した者もいれば、かつてダビデにアドバイスしたが受け入れられなかった者の名も記されている。
 なぜ不可解な人々のリストが最後に記されているのだろうか。経済的、軍事的に安定した王国であっても、有能な人材がそろっている王国であっても、結局人間は完全ではないがゆえに、人にさえ頼っていれば大丈夫なのではないということを警告しているようである。どんなに祝福を受けているときも、神の恵みと憐れみであることを覚え、神を愛してへりくだって仕え続けよう。

2014/9/5(金) 担当 高谷清師 ?コリ9:24-27  賛美 新聖歌 428
 続いてパウロは「だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。」と語る。この箇所を岩波訳は「それゆえに、私は〔目標が〕不明瞭であるような仕方では走らず、〔また〕空を打つような仕方で拳闘することはしない」と訳出している。賞を得ようとする競技者は目標をしっかりと見据え、それに向かって一心に進むのである。主イエスは「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない(マタ6:24)」と語っておられる。キリストに仕えながら世のものを追い求めることはできないのである。キリストに対する献身を口にしながら、地上の地位と富に目が眩み、それらを求めて権謀術数を尽くして相手を陥れ、権力争いを繰り広げる「指導者」とは何者ぞ。このような輩はキリストの僕ではあるまい。愛兄姉方、私たちは真心をもって、主に目標を定め、ひたすら仕えようではないか。

2014/9/6(土) 担当 高谷由紀子師 ?ヨハ5:21  新聖歌390
 ヨハネは自分がイエス様に導いた人たちに手紙を書きました。手紙の最後にどうしても言っておかなければならないと思って「子たちよ、偶像を避けなさい」と記しました。若い時からずっとイエス様を信じ続けてきたヨハネが身にしみて感じたことですから、本当に大切な教えです。偶像礼拝というのは神様でないものを神様のように拝んだり大事にしたりすることです。木、石、金、銀、銅等に刻まれた像を拝むことだけでなく、人の心の中にある見えない願望や思いを神様よりも大切にすることです。このような偶像礼拝は神様を悲しませ、神様を私たちの心から遠ざけてしまうのです。日々の生活において財産や衣食住の事、名誉や地位などが神様に優先することがないように、神様を第一にする生活をしましょう。”,,1152″