2015/2/16-21

2015/2/16 (月) 担当 高谷清師 ?コリ14:20-25  賛美 新聖歌 345
 この段落の冒頭においてパウロは「兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください」と語りかける。この箇所について小畑進は「いつまでも子どものように無邪気な童心を枯死せしめないことは推賞されますが、子どもっぽい、わがままや幼稚さは早く卒業すべきです。(中略)ただピカピカするもの、珍奇なものをもてはやして、物の本当の価値を判断・分別しえない子どもっぽさは、異言をひけらかして預言を蔑視するコリント人のものでした。(コリント人への手紙第一提唱P612−613いのちのことば社)」と述べている。また、「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう(マタ18:3)」と語られた主は「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい(マタ 10:16b)」と述べておられる。幼子のような純真を失わず、成熟した大人として物事を判断し熟練した大人として主に仕えていこう。

2015/2/17(火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下24:1-16 賛美 新聖歌170
 祭司ヨヤダによる企てが成功し、六年間のアタルヤの時代が終わった。ヨアシュは40年にわたって国を治めた。その治世は二つの時代に区分される。前半は祭司ヨヤダの存命中である。これは「主の目にかなう正しいことを行った」(24:2)時代であった。ヨヤダは長らく放置されて荒れ果てていた神殿の修復を実行した。人々に自発的な献げものによって賄われる税を呼びかけた。それまでに税の徴収は遅滞していたが、民が自由にささげられるよう箱が設置されると民は多くを献げ、神殿の修復と補強に加えて祭具類も新調された。
 わたしたちは「忙しくて奉仕できない」とか「十分に持っていないのでささげられない」としばしば口にしてしまう。確かに現代の生活は忙しい。しかし時には立ち止まって何のために忙しいのかを考え直し、優先順位を確認してみよう。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)

2015/2/18(水) 担当 高谷清師  ?コリ14:20-25  賛美 新聖歌 183
 続いてパウロは、「律法にこう書いてあります」と述べ、「『異国の言葉を語る人々によって、/異国の人々の唇で/わたしはこの民に語るが、/それでも、彼らはわたしに耳を傾けないだろう』/と主は言われる。」と言う、イザヤの言葉を引用する。これは、イザヤの預言を軽んじ、聞き入れず、『誰に知るべきことを教え/お告げを説き明かそうというのか。乳離れした子にか、乳房を離れた幼子にか。「ツァウ・ラ・ツァウ、ツァウ・ラ・ツァウ/(命令に命令、命令に命令)/カウ・ラ・カウ、カウ・ラ・カウ/(規則に規則、規則に規則)/しばらくはここ、しばらくはあそこ」(イザ 28:9-10)』と言っていた当時のイスラエルの人々に対する主の言葉である。これについて小畑進は『「異なった舌により、異国の人のくちびるによって」とは、北方アッシリヤ軍の侵攻による懲罰を意味していました。聞きやすいイザヤの預言こそ恵みのしるしであったのに、意味のわからぬ異国語を語るアッシリヤ人による破滅を迎えたいのか」という趣旨です。(中略)つまり、使徒の言いたいことは次のようになりましょう、「兄弟たちよ、預言者がこのようにきびしく非難している子どもの状態にならないようにしなさい。つまり、神の御言葉があなたがたの耳にむなしく鳴りひびくだけではいけないのだ。ところで、あなたがたは自分の手中に与えられている預言の賜物をかえりみず、無益な異言をひびかせ、人にほめられていい気になることを願っている。いったい、そんなことは、みずから神の呪いを招き、求めるようなものではないか」と。(コリント人への手紙第一提唱P614-615いのちのことば社)』と述べている。それ故、パウロは「異言は、信じる者のためではなく、信じていない者のためのしるしです」と語るのである。御言葉に誠実に聞き従う者となろう。

2015/2/19(木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下24:17-22 賛美 新聖歌389  
 ヨアシュの治世の後半である。祭司ヨヤダの死後、王はあっという間に主から離れて偶像礼拝へと陥った。何人もの預言者が遣わされたにもかかわらず、王は聞く耳を持たなかった。はっきりと主の戒めを破ったからこそ主が王とユダを捨てられると語られても、何の意味もなさなかった。
 しばしば私たちは神が語ってくださらないから、示してくださらないから、行くべき方向がわからないと言う。しかしヨアシュの時代と変わらず、今も神は聖書や教会を通して語りづけておられる。語り掛けられてはいても、聞くべきでない人から聞いていれば、聞くべき言葉は遮られる。ヨアシュも彼を偶像礼拝へと陥れた神に従わないユダの高官たちの言葉で頭がいっぱいになり、聞くべき警告が遮られた。み言葉を聞き、み言葉に従おう。

2015/2/20(金) 担当 高谷清師  ?コリ14:20-25  賛美 新聖歌 409
 更にパウロが「異言は、信じる者のためではなく、信じていない者のためのしるしです」と言うとき、聖書の次の箇所にも注目しょう。『異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。そこでペトロは、「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」と言った。(使10:46-47)』と記されており、また「パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言を話したり、預言をしたりした(使 19:6)」と記されている。異言を語ることは聖霊臨在のしるしであり、信じていないものに対するしるしである。パウロが「わたしは、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します。(?コリ14:18)」と述べていることに今一度留意しよう。

2015/2/21(土) 担当 高谷由紀子師 コヘレト12:1 新聖歌337
 若い日にこそ神様を信じなさいと勧められています。「いや、今はまだ若いので自分の力で精いっぱい生きていきます。」と言う青年。ほかにも「信仰は年を取って社会での働きが無くなってから考えます。」、あるいは「子供には信仰の言葉わかりません。」などという意見を述べる人が一般的にはほとんどです。しかし聖書は若い日にこそ神様を信じることを求めています。絵を描くこと、歌を歌うこと、料理を作ること、その他いろいろなものを作ることで失敗すればやり直すことができます。しかし私たちの一生の一部である『昨日』と言う日は戻ってきません。大人が子供になってやり直すこともできません。
 あなたの若いとき、今創造主である神を信じることが人間に与えられた神様のメッセージです。”,,1145″