2015/4/27-5/2

2015/4/27 (月) 担当 高谷清師  ?コリ15:5-8  賛美 新聖歌
 キリストの復活は欠くことのできない福音の要素である。それは私たちの永遠の命であり喜びであり希望である。しかしそれは、死と葬りに比べて多くの人々に信じることの困難を覚えさせた。死と葬りは、その意味するところを理解することは別として、多くの人々に事実として認識された。しかし復活は誰でもが、肉の目をもって確認できるものではなかった。そのためパウロは復活されたキリストがご自身を顕された多くの人々をキリストの復活の証人として示す。
 パウロがアテネで福音を語った時、話が復活に及ぶとアテネの人々は「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう(使 17:32)」と言って去って行ったと記されている。ヘブライ人への手紙の記者は多くの信仰の証人について述べた後「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか」(ヘブ 12:1)と語っている。しっかりと信仰に立ち、歩もう。

2015/4/28(火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下32:1-8  賛美 新聖歌179
 32章にはアッシリアのセンナケリブがヒゼキヤの時代にエルサレムに脅威を与えたこととヒゼキヤの治世の病のことが記されている。これらは列王記下18:13-20章とイザヤ書36-39にも記され、よく知られている。しかし歴代誌の記述は列王記やイザヤ書に比べると驚くほど短い。歴代誌は一連の出来事の中から独自に大切だと思うことに焦点を当てて語っている。ここではまずヒゼキヤがアッシリアの攻撃に備えて国の防備を固めたことを記している。水の流れを堰き止めて敵が水を得られないようにし、ミロ(土を盛って高くした防衛施設であろう)を建設した。
 これはヒゼキヤが自分の力に頼って国を守ろうとした、神に頼るという信仰に反する行為であろうか?国を守るための能力と資力も神からヒゼキヤに託されたものであった。ならばそれを用いてできる限り直面する事態に備え、ヒゼキヤの責任において最善を尽くすことはむしろ神に忠実であることの表れである。神から与えられた力を尽くしてなおかつ神に信頼を置き、自分の力の及ばないところは神の守りを信じること、これが信仰者の姿である。自分の力も神から来ることを知り、限界がある中でも最善を尽くし、なおかつ神に信頼を置く歩みを私たちも続けていきたい。

2015/4/29(水) 担当 高谷清師 ?コリ15:8-11  賛美 新聖歌 390
 パウロはこの箇所で自身の体験について語る。彼は自身について「月足らずで生まれたようなわたし」と言う。「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者」だからである。パウロは神に対して熱心であった。それ故に神の教会を迫害したのである。使徒言行録において「また、あなたの証人ステファノの血が流されたとき、わたしもその場にいてそれに賛成し、彼を殺す者たちの上着の番もしたのです(使22: 20)」と述べている。そしてダマスコの教会を迫害するためそこに向かい郊外に達した時、突然主が彼に現れ、語りかけられたのである。それによってパウロはキリストこそ真の神であり、救い主であることを知ってキリストを信じる者となったのである。それのみならず、主の召命を受け、使徒とされたのである。(使徒言行録9:1−19参照)。使徒と呼ばれるのは地上を歩まれた主と寝食を共にして親しく主に学び、主に召された人々であった。しかしパウロは地上を歩まれる主と共に歩み、学んだ経験を持っていない。そのため自身のことを「月足らずで生まれたようなわたし」と言っているのである。主は「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(?サム 16:7)と語っておられる。主は神に対して熱心なパウロの心を見、恵みによって召されたのである。常に真実をもって御前に歩もう。

2015/4/30(木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下32:9-23  賛美 新聖歌233
 センナケリブの使者はユダのすべての人々に対して、彼らの信じる神にはエルサレムを守る力がないから信仰を持っても無駄だと脅した。さらにヒゼキヤが自分勝手な信仰により、国中で民が大切にしていた祭壇を壊してしまったと述べ、ユダの人々を分裂させようとした。しかし、ここにはヒゼキヤとユダの民に分裂や動揺は全く見られない。彼らは一致して主に祈り、叫び求めている。この堅固な信仰と一致はどこから生まれるのであろうか。それはヒゼキヤの時代に高台の祭壇を取り除いたのはヒゼキヤ個人の事業ではなく、民自らが立ち上がって偶像を排除するために行った事業だったからである。押し付けられた信仰ではなく、最初から主だけを信頼するという信仰が民の中に共有されていた。そのように育った信仰共同体には危機に際しても崩壊することがない一致がある。
 信仰共同体の一致はどこから来るのだろうか。様々なイベントを成し遂げるときの連帯感だろうか。共同体の中の一人が持つ強力な権威とリーダーシップによって作り上げられるものだろうか。これらは危機に際してもろさを露呈する。しかし、共同体の中の一人一人が神に出会い、体験し、自発的に神を第一とするという地点に向かって歩み始める信仰を持つならば、それはどんなときにも揺るがない一致を生み出すのである。

2015/5/1(金) 担当 高谷清師  ?コリ15:8-11 賛美 新聖歌 373
 パウロは「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」と語る。キリスト教史を見るとき、パウロの働きは実に偉大である。そのパウロの伝道者生涯を貫いていたものは第一に神によって与えられた使徒職の尊厳さの自覚である。彼は福音について世の権威と権力に一切妥協しなかった。先輩使徒にも、彼が福音から離れてユダヤ人に妥協した時、それに抗議した。第二は「働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」と述べているように、一切の栄光を主に帰し自らを低くする謙遜であった。
 私たちはキリストによって召され、救われ、生かされ、恵みによって仕えさせていただいているのである。一切の栄光を主に帰し、自らを低くして歩もう。

2015/5/2(土) 担当 高谷由紀子師 ?テモ4:1-2  賛美 新聖歌 434
 パウロは自分の生涯の終わりが近いことを自覚して愛弟子テモテに厳かに命じています。「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです」と。御言葉を伝えるのに好都合な時、環境と言うものはありません。世はサタンの支配下にあるからです。キリスト者が御言葉を語るのに好都合な時、環境を待っているなら、永遠に御言葉を伝えることはできないのです。どんな時でも、いかなる状況においてもみ言葉を伝えることは救われた者の使命であり任務です。今この時に、御言葉を伝えましょう。”,,1134″