2015/5/4-9
- 2015.05.04
- ディボーションの友
2015/5/4 (月) 担当 高谷清師 ?コリ15:9-11 賛美 新聖歌 392
パウロが宣べ伝えている福音はほかの使徒たちによっても宣べ伝えられていた。パウロが宣べ伝えている福音はほかの使徒たちと同じように主から受けたものであってパウロの創作ではない。宣教者各々において宣べ伝える対象、環境等によって強調点は異なるとしても、福音は同じである。それは「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです(?コリ15:3-5)」であった。そしてコリント人たちの信仰もまたこれを土台としているのである。今日の教会もまたこれを土台としている。私たちも今一度復活の信仰を確認して歩もう。
2015/5/5(火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下32:24-30 賛美 新聖歌299
さらにヒゼキヤの病について記されている。この死の病に関しても列王記とイザヤ書にも記されているが、いつもの通りに歴代誌は淡々と書いている。ヒゼキヤが病と死について告げられた時の態度はアサが病にかかったときとは対照的である。アサは神に頼ろうとせず、医者に頼った。しかしヒゼキヤはこの病の原因となった思い上がりをすててへりくだったので、病が癒された。列王記やイザヤ書を見るとこのとき神が与えられたしるし、すなわち日時計が後戻りしたことについて記しているが、歴代誌はそのことには一切触れていない。誰もが知っているこのしるしの内容について一切触れず、ただ癒しにしるしが伴ったことだけを報告することにより、私たちは奇跡に心をとめるのではなく、ヒゼキヤのこれまでの神への忠実と、宗教改革をおこなったその信仰と、それにより神に祝福されたということに心を向けることができる。
奇跡やふしぎを通して神の力と本質を知ることも大切である。そしてまた、神に忠実に従う者が失敗することがあっても、悔い改めて立ち返る時に神は確かに憐れみを示し、赦し、癒してくださる。神に背かないことが第一であるが、もし背いてしまった時には自分の力に頼るのではなく、高ぶりを捨てて神に立ち返ろう。
2015/5/6(水) 担当 高谷清師 ?コリ15:12-19 賛美 新聖歌 361
コリント教会はパウロの宣べ伝えた福音を土台としているはずであるのに、「死者の復活などない」と言っている者がいた。その者たちの主張は霊魂不滅論に基づくものであったかも知れないが、深く立ち入ることは省略しょう。そこでパウロは「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」と言って使者の復活の否定はキリストの復活の否定であることを明らかにする。そして「そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」と述べる。この箇所を新改訳聖書は「そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。」と訳している。
復活を否定するなら私たちの宣教は空しく、信仰もまた空しい。復活を信じる時はじめて私たちの救いは確かなものとされる。
2015/5/07(木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下32:24-33 賛美 新聖歌359
一度はヒゼキヤの病は癒された。しかし彼は「受けた恩恵にふさわしくこたえ」(32:25)ずに思い上がり、また民と共にへりくだるということを繰り返した。最終的にヒゼキヤの時代には経済も豊かに祝福されたが、神はヒゼキヤの心を試された。バビロンの諸侯が使節を送りこんだとき、神は事態に介入なさらず、ヒゼキヤの対応をご覧になった。高ぶりと悔い改めるヒゼキヤの心が最終的に神と一つであるかを試されたのである。
「罪を犯しても悔い改めれば赦してもらえるから大丈夫」という思いで神を侮る心を持ちながら仕えるならば、それは心から神を慕い求めている姿であるとは言い難い。神が望んでおられるのはいつも変わらない忠実な心である。悔い改める必要のない忠実な歩みを求め、聖霊の助けによって神と心を一つにして歩みたい。
2015/5/8(金) 担当 高谷清師 ?コリ15: 12-19 賛美 新聖歌 390
死人の復活を否定することの結果の第二は「わたしたちは神の偽証人とさえ見なされる」ことである。何故なら「復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるから」である。パウロは、彼の宣べ伝えた福音を「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと(?コリ15:3)」と言って、神から受けたものとして、自分の創作ではなく神のことばとして語った。神のことばでないものを神のことばとして語ることは神に対する重大な反逆である。エレミヤの時代、多くの偽預言者が王に取り入るため、王の意向に沿う事柄を「主は言われる」と言って語った。主のみ言葉を語る任に召された者の畏れがここにある。しかしキリストは復活されたのである。それ故、使徒の宣教は真正である。
2015/5/9(土) 担当 高谷由紀子師 ルカ18:9-14 賛美 新聖歌 359
ファリサイ派の人は他の人たちの生活を見て自分のほうが彼らよりもいくらか正しいことを確認して安心しています。隣の徴税人を見下して、「この徴税人のような者でもないことを感謝します。」(11節)と祈るのです。ファリサイ人は神の御前でも自分を中心にしか考えず、他人と比較して自分のほうが絶対に正しいとしか見ないのです。神の光に照らされない限り、自分の本当の姿は見えないのです。主が彼は白く塗られた墓のようだと言われたように、彼らの外面は立派に見えてもその心の中は様々な汚れと悪とで満ちています。それとは対照的に、徴税人の祈りは真実と謙遜をもって神の御前で自分を低くして、神の憐れみを求める祈りです。彼は自分の罪を認めて悔い改めています。
主は「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(14節)といわれるのです。”,,932″
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