2015/6/1-6

2015/6/1 (月) 担当 高谷清師  ?コリ15:42-49  賛美 新聖歌 201
 パウロは『「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。』と語る。創世記は「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。(創 2:7)」と記している。ヨハネは「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった(ヨハ 1:1-4)」と述べている。そして最後のアダム―キリスト―は「すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。(ヨハ 5:21)」と語っておられる。最後のアダムは命であり、その贖いの御業によって私たちに命を与えてくださったのである。

2015/6/2(火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下35:20-26  賛美 新聖歌372  
 私たちは生涯を通じて様々な人の死に接する。その中には長い生涯を精いっぱい生き抜いて功績を残して死を迎える人もあれば、志半ばにして、短い生涯を閉じる人もいただろう。どの訃報も悲しみをもたらすが、中でも受け入れ難い死がある。ヨシヤの生涯の最後もまたどう説明しようと思っても説明がつかない。納得できない。神のことばに従って正しく生きて来たヨシヤ王の最期が、エジプトの王の口を通して語られた神のことばを聞き分けることができず、変装して出かけた戦いにおける死であった。この死の場面は、北王国で神に背いたアハブ王の最期とあまりにも似ている。ヨシヤ王の死の場面を読むとき、神に従った人なのにどうして神はこのような死を許されたのかと困惑する。たった一度、思いもかけないエジプトの王の口を通して語られた神の警告を聞きのがした結果がこの正しい王の突然の若くしての死であった。「たった一度」であっても、神のことばを聞き分けられないことが取り返しのつかない結末を招くことも起こりうる。神のことばを聞き分ける霊の耳を澄まして真剣に主と向き合おう。

2015/6/3(水) 担当 高谷清師 ?コリ15:42-49  賛美 新聖歌 291
 続いてパウロは「最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です」と語る。ヨハネは「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。(ヨハ 3:31-36)」と記している。フィリピの信徒への手紙においてパウロは、地に属する者と天に属する者について「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています(フィリピ3:18-20)」と述べている。キリストの尊い贖いの恵みによって天に属するものとされた私たちは、地のものではなく、神の国と神の義を求めつつ歩もう。

2015/6/4(木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下36:1-10  賛美 新聖歌233
 ヨシヤの突然の死の後、ユダ王国はわずかの間に滅びていく、その間の四人の王、ヨアハズ、ヨヤキム、ヨヤキン、ゼデキヤについて、歴代誌は短く伝える。ヨアハズについては主の目にかなう王であったかどうかと言う評価すらも記されていない。彼はエジプトによって退けられ、次いでエジプトの言いなりになるヨヤキムが王に据えられた。この時代にエジプトの支配下からバビロンの支配下へと移ることでユダは生き延びた。しかしヨヤキムも神に背いた王であり、神の祝福を失ったユダは滅びへ向かってまっしぐらに進む。ヨヤキムもその短い治世の報告を通じて悪を行ったことだけが記されている。
 神を離れ、神に背むいて歩むときには滅びしか見いだせない。ここに至るまでに神は何度も預言者を送って警告を重ねられた。一時的には改善されることがあっても徹底的な悔い改めと回心には至らなかった。その結末は滅びである。まだ神が待ってくださっている間に、日々の歩みを精査し、神に喜ばれる者として歩む道を選び取っていこう。

2015/6/5(金) 担当 高谷清師  ?コリ15:42-49  賛美 新聖歌 325
 さらにパウロは「土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです」と語る。ヨハネは「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。(?ヨハ3:2)」と述べている。またパウロは「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです(ピリ 3:21)」と述べている。この箇所について内村鑑三は「クリスチャンは小なるキリストなり。キリストは上より来たりしものなるがごとくに、クリスチャンは上より生まれしものなり。彼にいまだアダムの性の存するありといえども、これすでにキリストとともに十字架につけられしものなり。クリスチャンはアダムの子孫にあらず。彼は、父なる神が聖霊をもってその聖子によりて新たに創造(つく)りたまいしものなり。死はアダムに属するものなり。ゆえに、すでにアダムに属せざるクリスチャンに死は臨むべからざるなり。復活はクリスチャンの希望なり。アダムの子孫にこの希望あるなし(内村鑑三聖書注解全集第一二巻P155―156 教文館)と述べている。世に在って肉の弱さに苦しみつつも、復活の日を望み、喜びに生きることの出来る恵みに感謝しつつ歩もう。

2015/6/6(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 7:24-30 賛美 新聖歌 343
 賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられたイエスは、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れたのを見て感動し、弟子たちを呼び寄せて「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」と言われた。他の人々は有り余る中から、律法に定められた義務として献げた。それは自分の生活に影響を及ぼさない範囲のものであった。しかしこの貧しいやもめの献げ物は、自分の持っている物をすべて、生活費全部、であった。それは義務としての献げ物ではなく、信仰と愛による献げ物であった。神が喜ばれるのはこのような献げ物であり、歩みである。”,,868″