2015/8/17-22

2015/8/17 (月) 担当 高谷清師  ?ペテ1:3-5  賛美 聖歌 236
 続いて「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています」と語る。私たちは御子の贖いの恵みによって救いに与り、永遠の命を与えられ、感謝と喜びの生活に入れられている。とは言え、空中に勢力を持つ者の支配する世に在って多くの試練に遭い、悲しみと苦しみと痛みの生活を強いられている。しかし、「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである(黙 21:4)」と記されているように、終わりの時には御国に入れられ、すべての悲しみと苦しみと痛みから解放されるのである。これがキリスト者の望みである。このことについてパウロは「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです(?コリ4:16-18)」と述べている。主が私たちに備えていて下さる「終わりの時に現されるように準備されている救い」を仰いで今日を生きよう。

2015/8/18(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書6:1-5 賛美 新聖歌390
 イザヤが幻において天の御座に座しておられる主を見たことが記されている。しかしここでは神の姿全体ではなく、神殿を満たす衣の裾だけが描写されている。まさに神の臨在を体験した時イザヤは畏れに満たされた。イザヤの体験した神は聖なる神であった。罪と汚れのない神であり、栄光に満ちた神を見た時、イザヤはその前に立つ自分の汚れを知り、ありのままで神の前に立つにふさわしくないものであることを悟った。それゆえに「災いだ」と叫んだ。このイザヤの姿を見るとき、人間は到底神と同じにはなりえない、汚れの中に生きている者であることを悟る。神に近づくこと、神の前に立つことは私たち人間の努力や鍛錬だけによって実現されるものではない。神の赦しがあり、恵みがある時にのみ可能なのである。本来神を見ることができない者をもただ神の恵みによって臨在の中に招いてくださる。
 神に近づくこと、神の臨在の中に生きること、その恵みをしっかりと知りつつ、主によってきよめていただき、畏れをもって主に近づこう。

2015/8/19(水) 担当 高谷清師  ?ペテ1:3-5  賛美 新聖歌 302
 更に「終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています」と語られている。将来、終わりの日に素晴らしいめぐみが備えられているとしても、現実に直面している厳しい試練、しかも、その試練が日々厳しさを増し加えていく中にあって、聖徒がどうしてそれにどうして耐えることが出来るであろうか、と言う問題がある。私の妻はわたしの両親の介護を担った。その頃は公的介護の認識は薄く、介護保険もなく、農村社会に在って「両親の介護は嫁の務め」と言う認識が支配していた時代である。介護から解放されたある日、妻は「『どちらが先に倒れるか』と思う日々の連続であった」と述懐した。誠に、頭の下がる思いである。厳しい試練の連続の中に在ってどうそれに耐えるか、ぺトロは「神の力により、信仰によって守られています」と語る。パウロは「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます(?コリ10:13)」と述べている。信仰に立ち、神の力に支えられて勝利しょう。

2015/8/20(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書6:1-8 賛美 新聖歌390
 天の御座に座しておられる主を見た時、その清さに触れて自分の汚れの故に滅ぼされることも覚悟した。しかしその時、イザヤはセラフィムの持つ炭火によって清められた。イザヤはその罪と咎を取り除かれ、主の御声に応えることができる者とされた。主の働きのために遣わす者を求めておられる主に対してイザヤは即座に「わたしを遣わしてください」(6:8)と言うことができた。この後、神はイザヤにその使命の内容を伝え、彼を遣わされた。
 神が働き手を探しておられるときにイザヤはためらわずに自分が行きますと言うことができた。もちろん神がイザヤの唇にふれて彼をきよめてくださった。そしてさらにイザヤ自身が神の働きのために出ていくという準備もできていた。思いがけぬ時に神が働き人を求められるかもしれない。その時にイザヤのように「わたしがここにいます」と答える用意があるだろうか。主の御心を常に行えるよう、自らの備えをしよう。

2015/8/21(金) 担当 高谷清師  ?ペテ1:3-5  賛美 聖歌 450
 聖書において語られている、試練の中に在る聖徒に向けられたメッセージの一つに目をとめてみたい。ヘブライ人への手紙には「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい(ヘブ 12:2-3)」と記されている。主イエスは聖徒が遭遇するであろういかなる試練にもまして厳しい試練を受けられ、神に在って勝利されたお方である。「御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです(ロマ1:3-4)」と記されているとおりである。更に「信仰の創始者また完成者であるイエス」と記されている。「正しい者は信仰によって生きる」という御言葉を聞くとき、「自分が信仰を持たなければ」と思うかもしれない。しかし主イエスは「信仰の創始者また完成者である」と言われている。井上洋治師は「南無アッバ」と言われる。唯主イエスにより頼むとき主は私たちを守られる。感謝しつつ主のみ懐に生きよう。

2015/8/22(土) 担当 高谷由紀子師 ルカ18:18-23   賛美 新聖歌427
 金持ちの議員は財産も名誉も地位もあり、この世においては不足のない豊かな生活をしていました。しかし自分の中に何か足りないものを感じていました。そこで主を訪ね、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と聞きました。
 財産はこの世の生活において安全と快楽をもたらすでしょう。良い行いや道徳は栄誉と信頼を得させるでしょう。しかしそれらは永遠の命に到達する保証とはならないのです。「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)と言われた主だけが永遠の命に至る道なのです。その主を信じて、全てにおいて主の思いに従うときに何か足りなかったもの、すなわち永遠の命を得ることができるのです。”,,1174″