2015/10/26-31

2015/10/26 (月) 担当 高谷清師  ?ペテ2:4-6 賛美 聖歌 89
 旧約聖書においては、祭司は犠牲の動物の血を携えて神の前に出た。御子イエスの贖いの恵みの内に在る私たちは、信仰によって神の前に出ることが出来る。それ故、ぺトロは「神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。」と勧めるのである。「神に喜ばれる霊的ないけにえ」についてヘブライ人への手紙の著者は「だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。(ヘブ 13:15)」と記している。そして詩篇は「だがあなたは、聖所にいまし/イスラエルの賛美を受ける方。「(詩 22:4)」と詩っている。この箇所を新改訳聖書は「けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。(詩 22:3)」と訳しておられる。「神に喜ばれる霊的ないけにえ」の一つは賛美である。常に主をほめたたえるものでありたい。

2015/10/27(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書13:1-5 賛美 新聖歌148
 ここからはイスラエルを取り巻く諸外国に対する神のことばが述べられる。最初に語りかけられるのはバビロンである。バビロンは北王国を滅ぼしたアッシリアに代わってメソポタミア、パレスチナを統一して勢力地図を塗り替えたほど強大な武力を持っていた。このバビロンが南王国ユダを滅ぼしたのである。この国に対して神ははっきりと滅びを宣言される。
 この神の権威ある言葉を聞く時、神はイスラエルだけの神ではなく、世界の神であり、その主権を全世界に対して持っておられる方であると思い起こされる。あらゆる状況において私たちは、神は全能者であり、世界を統べ治める方であり、義を行われる方であるということを知り、神を信頼しつつ歩むことが出来る。

2015/10/28(水) 担当 高谷清師  ?ペテ2:4-6  賛美 新聖歌 388
 「神に喜ばれる霊的ないけにえ」はまた「善い行いと施し」である。ヘブライ人への手紙には「善い行いと施しとを忘れないでください。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです。(ヘブ 13:15)」と記されている。またパウロは「フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです。わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。(フィリピ 4:15-18)」と述べている。「善い行いと施し」それは愛を源とし、愛からほとばしり出るものである。それは神の前において、最も大いなるものである。

2015/10/29(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書13:6-22 賛美 新聖歌275
 引き続きバビロンに対して裁きが宣告される。「主の日」はここでは神の「憤りの日(13:13)」である。神がバビロンを滅ぼされるとき、月も星も太陽もその光を失い、地は暗闇に包まれる。地は震え、動物も人もその地から逃げ出そうとする。しかし誰一人その神の裁きを逃れ得る者はなく、死に襲われる。この恐ろしい荒廃した光景を見た人は誰一人近づこうとしない。
 時の権力者である国が一瞬にして荒廃することを誰が予測するだろうか。突然の没落は常識的に考えると不可能である。このバビロンによって苦しみを受けていたユダの人々にとっても現実的ではない神の宣言であった。しかし、神はいかに強大な国であっても神の前に義と認められないもの、罪を犯す者をその定められたときに裁かれるのである。神の力には何者も抗うことができない。全能の主と共に歩む者、主に従う者を神は公正な裁きによって守ってくださる。今日も力ある神に従い、正しく歩もう。

2015/10/30(金) 担当 高谷清師  ?ペテ2:4-6  賛美 新聖歌 384
「神に喜ばれる霊的ないけにえ」についてパウロは「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。(ロマ 12:1)」と述べている。この「体」という言葉についてカルヴァンは「これは単に骨や皮をさすだけではなく、われわれの人格の全体をさすものである。(カルヴァン新約聖書注解?ローマ書P327 新教出版社)」と述べている。「神に喜ばれる霊的ないけにえ」は我々の全存在を神に委ね、神の御心を生きることである。パウロは「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。(ガラ 2: 20)」と述べている。常に聖霊に導かれ、御言葉を生きよう。

2015/10/31(土) 担当 高谷由紀子師 ?コリ1:18-21 賛美 新聖歌359
 古来、人間は洋の東西を問わず、神、そして救いを探し求めてまいりました。そしてたくさんの知者、賢者を輩出してきました。彼らは多くの道、教えを説きました。しかし、神がご覧になる時、それらのどれ一つも、人に救いを得させるもの、人を永遠の命に導くものはありませんでした。そこで神はご自身の愛の故に、人に救いを得させるために、罪のないご自身の独り子、御子イエスを遣わし、このお方に人のすべての罪を負わせて十字架に架けることによって人を罪から解放し、救いを得させる道を開かれました。このイエスを救い主と信じる者に救いが与えられるのです。これは、世の知者・賢者の目には愚かに映るのです。しかし、これこそ神の知恵であり、私たちの救いの唯一の道です。”,,1069″