2016/3/28-4/2

2016/3/28 (月) 担当 高谷清師  ?ペテ3:10-12 賛美 新聖歌 339
 命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人の、次に守るべきことは「悪から遠ざかり、善を行」うことである。ぺトロがこの手紙を送ったのはポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちに対してであった。彼らは罪と悪に満ちていた異教社会に在って、キリスト者ゆえに襲いかかる迫害と苦難の生活を強いられていたのである。そのような状況下にある兄弟たちに対してぺトロは「悪から遠ざかり、善を行う」ことを求めるのである。私たち日本に住むキリスト者も欺瞞と悪意に満ちた異教社会に囲まれて生きている。そのような状況下にあって、ある者は体よく異教社会と妥協し、悪を正当化しているのである。しかし真のキリスト者はそうであってはならない。パウロは「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」(ロマ 12:19-21)と勧めている。善をもって悪に勝つ者となろう。

2016/3/29(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書32:1-14 賛美 新聖歌302
 エジプトやアッシリアを頼りにするなという言葉に続いて、理想的な王の支配について語られる。イザヤ書の9章で約束されている王の姿をこの箇所に見ることができる。正義によって統治する王があらわれ、その王のもとで働く高官たちも公平をもって支配し、人々は神に喜ばれる道を歩む。警告を受けている真っ只中にあって、これは神からの希望にあふれる約束である。しかし、この箇所には同時に「憂いなき女たち」、すなわち高い地位にとどまり、社会の切羽詰まった状況を理解せずに安穏に暮らしている者たちへの破壊と滅びの警告もまた共に語られている。
 神は神に信頼することを忘れ、救う力の無いものに頼る人々の不信仰と愚かさに対して警告と裁きを語られる。その真っ只中で将来の希望を語られることを通して人々を真の希望と信頼すべき方へと導かれる。頼るべきお方に頼り、自分の不信仰と罪を悔い改め主と共に歩みたい。

2016/3/30(水) 担当 高谷清師  ?ペテ3:10-12  賛美 新聖歌 339
 命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人に、次に求められることは「平和を願って、これを追い求め」ることである。この項についてカルヴァンは「平和がわれわれに与えられているときに、それを受けとるだけでは十分ではなく、もし平和がわれわれから逃げてゆくように見えたら、ちょうど追いかけるように、探し出さなくてはならないからである。さらに{言葉をそえれば}われわれが出来る」だけ平和を追求しても、他人がわれわれに平和を与えないという事態がひんぱんに起こるようになるであろう。ゆえに、ペテロは、この困難と妨害とのために、平和を求めて追求することをわれわれに要求しているのである。」(カルヴァン新約聖書注解??ペテロ・ユダ・ヨハネ書簡P95新教出版社)と述べている。主イエスも山上の説教において「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタ 5:9)と語っておられる。平和は座して待っておればやってくるものではなく、願い、追い求め、実現するものである。

2016/3/31(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書32:15-20 賛美 新聖歌343
 再び新しい時代の特徴ある姿が描かれる。現実には神から離れて裁きの言葉を受けている民に、どうしてこのような姿を示すことができるのであろうか。荒野という命の無い場所が園や森という水の溢れる命に満ちた場所へと変えられる。正義と公平に特徴づけられた社会が生まれ、神が求めておられた信頼がそこには見られる。罪を犯し続け、警告を聞くことに失敗し続けて来た人々がこの様な恵みと平安溢れる場所に住まうことがどうして可能なのであろうか。それは人間の力ではなく、高い天から注がれる霊の働きによるものである(32:15)。
 昔も今も変わらず人は神の恵みによって生かされ、神の霊の働きによって回復される。日々私たちも誠実に神の前に正しく歩みつつ、ただ神の霊によって恵みのうちに歩ませていただいていることを心に留めよう。

2016/4/1(金) 担当 高谷清師  詩編17:6-9  賛美 新聖歌 302
 ダビデは祈りに際し、まず、自らを吟味しそこに偽りのないことを見た。更に神の吟味に委ねた。その上で神に対する信頼を根拠として祈るのである。主に対する信頼は、神はダビデ―御前に正しい者―の呼び求めに対して耳を傾け、訴えを聞き、答えてくださるお方であるからである。また神を避けどころとする人を救ってくださるお方だからである。更に神は瞳のように私を守り、翼の陰に隠してくださるお方だからである。私たちの主は「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(マタ 7:7-8)と約束してくださっている。またヤコブは「信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。」(ヤコ 5:15)と述べている。私たちの祈りの根拠は神への全き信頼、信仰である。

2016/4/2(土) 担当 高谷由紀子師  ?ペテ1:22-25  賛美 新聖歌 316
 厳しかった冬が去り、日本列島は美しい花で覆われようとしています。しかし、この美しさも束の間で、やがて花は散り果てます。この自然の移り変わりを見ながら私たちは聖書の言葉に思いをよせます。「人は皆、草のようで、/その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、/花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」私たちは罪と咎によって死んでいた者でしたが、キリストの尊い贖いの恵みによって朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。神による尊い永遠の命を与えられていることを感謝しつつ、日々前進しましょう。”,,1007″