2016/4/18-23
- 2016.04.18
- ディボーションの友
2016/4/18 (月) 担当 高谷清師 ?ペテ3:15 賛美 新聖歌427
ペトロは3:13において「善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう」と述べた。善いことに熱心であるなら人々はそれを喜び、その人は周囲から賞賛をもって受け入れられる、それが社会の建前であり、大原則である。しかし現実はそうではない。歴史を見るとき、善いことに熱心であった人々は苦難を強いられた。アブラハム、モーセ、ダビデ、そして預言者達は迫害に苦しんだ。その極みはわれらの主、イエス・キリストである。そのような苦難の中にある人々に対してペトロは「義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。」と述べた。そして15節において「心の中でキリストを主とあがめなさい。」と勧める。私たちの信仰に周囲の人々、家族、友人、知人、上司、・・・からの反対(世的善意からにせよ)、や迫害があろうとも、それに勝利するのは心の中でキリストを主とあがること、主との交わりの場、礼拝と祈りの場においてである。ダビデは「わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。」(詩 23:5)と詠い、主イエスはゲッセマネにおいて勝利を得られ、ステファノは訴える者たちに囲まれながら「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」(使7:56)と叫び、降り注ぐ石の中で「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と祈った。そしてパウロは「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ロマ 8:38-39)と述べている。主・命の源から私たちを離すことの出来るものは何者も無い。
2016/4/19(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書36:1-12 賛美 新聖歌263
36章から39章まではヒゼキヤ時代の出来事が記録されている。イザヤ書によるとアッシリアはヒゼキヤ王の第十四年に突然エルサレムの近くに大軍を送り、ユダに脅しをかけている。2節に記されている布さらしの野に至る大通りに沿った上の貯水池から来る水路の傍らという場所は7章でイザヤがアハズ王に対峙して、北王国とダマスコが攻めてくるという危機において神に頼れと告げた場所である。あの時と同様に、危険にさらされている王と民の心は木々が風に揺れるように震えていただろう。今エルサレムの役人たちに語っているのは神ではなく、アッシリアからの使者である。そして彼らの神に対する信頼に挑戦している。
神に頼るべき危機的状況において神はご自身に頼れと、私たちに声をかけてくださる。そして同時に神から信仰者を引き離そうとする力も働き、神に頼っても無駄だと誘惑をする者もやってくる。あらゆる状況において真の神の御声を聞き分けなければならない。
2016/4/20(水) 担当 高谷清師 ?ペテ3:15 賛美 新聖歌 363A
更にペトロは「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。」と語る。1:3においてペトロは「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、」と語った。主の復活による希望である。パウロは「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」(?コリ15:20-22)と述べている。またペトロは「だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」(?ペテ1:13)と述べている。主の再臨の約束に基づく希望である。更に「あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。」(?ペテ1:21)と述べる。私たちの罪を負い、十字架に死なれた御子を甦らせて勝利を与えられた全能にして愛なる神に在る希望である。これについていつでも証出来るよう、備えをしていたい。
2016/4/21(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書36:1-12 賛美 新聖歌341
先日と同じ箇所をもう一度読みたい。王と民を神への信頼から引き離そうとするアッシリアの使者は言葉巧みに語りかける。ラブ・シャケはイザヤが語ってきたのと同じ状況で、イザヤの様々な言葉を引用しつつ、全く反対のことを語る。なぜエジプトなどと言う頼りないものに頼っているのかと語りつつ、誠に頼るべき方は神ではなく、アッシリアの王であると嘘を吹聴する。あたかも神のことばを告げるかのようにアッシリアの王の言葉を告げて人々を混乱に陥れようとする。しかし注意深く読むならば、ラブ・シャケは本当にイスラエルが頼るべき方は神であり、神こそが力ある方であるという点をはき違えていることが分かる。
神に信頼する人々を神から引き離そうとする敵は後を絶たない。『園のどの木からも食べてはけない、などと神は言われたのか。』(創3:1)とエデンの園で誘惑して以来変わることなく信徒は誘惑にさらされている。私たちに語りかけてくださる神の声を聞き分け、ここにこそ信頼を置いて歩もう。
2016/4/22(金) 担当 高谷清師 詩編18:17-20 賛美 新聖歌 394
ダビデを取り巻く敵は力があり、勝ち誇っていた。ダビデの敵となった者は王であり、国家権力を持ち、その全力をもってダビデを討とうとしたのである。人間的視点から見るならダビデには一分の勝目もなかった。そのような状況の中に在って、「主は高い天から御手を遣わしてわたしをとらえ、大水の中から引き上げてくださ」ったのである。即ち、人知をはるかに超えた圧倒的な力をもって救い出してくださったのである。主イエスを十字架に架け、殺した、祭司長たちとファリサイ派の人々は主が「自分は三日後に復活する」と言っておられたのを思い出してピラトに墓を見張るように求め、重装備の兵士をもって墓を監視した。しかし神は圧倒的な力をもって主をよみがえらせ、墓から解放された。当時の地上最強の兵士も「恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」(マタ 28:4)のである。神がなされることを留め得るものは無い。
2016/4/23(土) 担当 高谷由紀子師 マルコ10:1-12 賛美 新聖歌216
ファリサイ派の人々はイエスから学ぶためではなく、イエスを試そうとして離縁について尋ねた。ファリサイ派の人々が心から神に従おうとした結果、この質問したものではありませんでした。ファリサイ派の人々は合法的なことや(2節)許されていること(4節)について語ることによって自分たちがいかに上手く律法の間をすり抜けていくことができるかを気にしているのです。それに対してイエスは知恵に富んだ答えを与えられました。神は創造の時に人を男と女に創造されたゆえに、二人は一体となり、結びあわされるのです。結婚は神の御心であり、創造の時に与えられた神の秩序によるものでした。
イエスは律法の要求よりも神の御心に関心を持っておられたのです。ファリサイ派の人々はイエスを試みようとして質問を投げかけましたが、主はそれを用いて創造の最初から神が与えられた深い恵みを考えるように導かれました。私たちも定められたことを文字通りに行うだけではなく、祈りと御言葉を通して深い神の御心を知り、従う歩みをしていきましょう。”,,953″
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