2016/5/16-21

2016/5/16 (月) 担当 高谷清師  ?ペテ3:19-20 賛美 新聖歌 395
 ぺトロは「この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。」と述べる。洪水前の状況について創世記は「は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。」(創 6:5-6)と述べている。このような時神は神に従う無垢な人・ノアを見出された。ノアについて聖書は「しかし、ノアは主の好意を得た。これはノアの物語である。その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。」(創 6:8-9)と記している。そして聖書は当時の社会状況について、重ねて「この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。」(創6:11)と述べている。そして神は裁きを決断しノアに「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす。あなたはゴフェルの木の箱舟を造りなさい」(創 6:13-14)と語られ、ノアは箱舟の建造に着手し、キリストはノアを通して当時の人々に宣教されたのである。しかし、箱舟に入り、救われたのは八人であった。
 主イエスは「今の時代の者たちはよこしまだ。」と語っておられる。現代はそのよこしまはさらに増幅しているといえよう。このよこしまな時代に在って救いの門は開かれ、主は「わたしのもとに来なさい」と招き、宣教の働きを教会に託されているのである。嘲る者のみ多く、信じる者の少ない、実り無き様に見える中にあっても、全力をもって主の附託に応えよう。

2016/5/17(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書37:30-388 賛美 新聖歌302
 イザヤを通して与えられた神の答えの最後の部分である。神はエルサレムの解放を約束して下さり、今そのしるしを与えられる。なぜ神はエルサレムを守るという恵みを与えてくださったのだろうか。もちろんヒゼキヤ王が神に頼った故であろう。さらに神ご自身が語られたところによると、エルサレムを守られるのは神ご自身のためであり、さらに神の僕ダビデのためである(37:35)。ダビデが生きていたのは既に数百年も前のことであった。しかし神は神ご自身とダビデのために救いをなされるとはっきりと語られる。これを通して、神は神であるがゆえにご自身の約束を守られるということが分かる。人が完全に神に従い得ないときでも、神はご自身の御名のゆえに義を行われる。
 私たちが信じ、従う神は真実な方である。私たちが神の御名を呼び求めるときに、神は約束の通りに私たちを救ってくださる。真実な神が共におられることを感謝しつつ、その神に喜ばれる信仰をもって歩みたい。

2016/5/18(水) 担当 高谷清師  ?ペテ3:19-20  賛美 新聖歌 445
 この「八人」と言う数字は、当時の世界人口が今日と比較して極めて少なかったとはいえ、あまりにも少数である。当時、如何に堕落した世であったとはいえ、宗教、倫理、道徳を説く者はいたであろう。真の神を畏れ、敬虔に、真実に生きる者、神に従う無垢な人、神と共に歩む人はノアたちだけであった。ノアたちにとっては四面楚歌、嘲りの的であったであろう。そのような中に在って真実な信仰を保つことがいかに困難であったかを思う。犯罪の容疑をかけられ、捕らわれ、周囲との交わりを遮断され、ただ一人で多くの取調官に取り囲まれ、責め立てられると、初めは否認していてもいつの間にか「本当に自分がやったのかな」と思い始めると言う。そしてやってもいないことを認め、自白したとされる。こうして冤罪事件が造られてきたのである。また、出世欲に取りつかれた輩は、「宗教なぞ、周りに合わせておけばよい。真理にこだわると出世に影響するから」と言う。しかし私たちは神の尊い選びによって真理に導かれ救いの恵みに入れられたのである。少数者であっても、互いに祈りあい、恵みを分かち合い、励まし合って主の来たり給う日まで真理の道を歩もう。

2016/5/19(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書38:1-22 賛美 新聖歌166
 これまでの流れとは一転してヒゼキヤは病にかかり、命が尽きようとしている。イザヤはヒゼキヤに死を宣告したが、ヒゼキヤはそれを聞くと直ちに主に祈り、癒しを求めた。ヒゼキヤはこれまで自分が神の前に正しく歩んできたことを思い起こしてくださいと訴えた。ヒゼキヤがこの様に神に求めることができたのは、彼自身が神に心から仕えてきたことの証しであろう。この大胆なヒゼキヤの願いに対して神は15年の月日を彼の生涯に加えられると語られた。太陽、月、星という天体の運行を支配しておられる神がそのことを約束してくださった。この恵みを受けたヒゼキヤは神に感謝の賛美を持って答えた。
 神との交わりを考えるとき、私たちは時間を取って主の前にひざまずいて祈ることや、賛美をささげることを考える。これらは私たちの信仰生活において大切な基礎である。そしてそれに加えて日々の歩みの中で神に忠実に歩むこと、すなわち自分の歩みを振り返って「私が正しく主に仕えてきたことを認めて下さい」と大胆に神に訴え祈りをささげることができるような日々を重ねることが私たちの力となる。

2016/5/20(金) 担当 高谷清師  詩編19:1-7  新聖歌 181
 詩人は「天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。」と詠う。そして「話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくても、その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう。」と言う。詩人は雄大な大自然を見た時、そこに神の御手を見、一言も無くても神のメッセージを聞いたのである。主イエスは「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタ 5:45)と語られた。私の友人―既に御許に召されて行ったが―が「飛行機の上でこの御言葉に接し、天を仰いで信仰を持った」と証ししていたことを思い出す。主は「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(ルカ 11:9-10)と約束しておられる。

2016/5/21(土) 担当 高谷由紀子師 マルコ6:45-52  賛美 新聖歌251
夕方に弟子たちだけが船に乗っていた時に逆風で船が動かず苦労していた。イエスはその時、山で祈っておられた。弟子たちイエスが自分たちの危険な状況に気付いておられることを知らなかった。しかしイエスはそれを知り、湖の上を歩いて船のところへ来られて「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(50節)と言われ、彼らを助けてくださった。弟子たちがこの時恐れの中で主の臨在に気が付かなかったように、しばしば私たちも困難と恐れの中にあって主が共にいてくださることに気付かず、混乱する。しかし私たちが気付いていなくても、主は私たちの状況を知り、そばにおられ、必要に応じて助けてくださる。どのような時にも主が共にいてくださることを忘れず、信仰をもって神に助けを求めよう