2016/7/11-16

2016/7/11(月) 担当 高谷清師  ?ペテ4:7-11  賛美 新聖歌 355
 万物の終わりが迫っていることを告げ知らせたペトロは「思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。」と勧める。この箇所を新改訳聖書は「祈りのために、心を整え身を慎みなさい。」と訳している。終末は近づいている、その時は誰も知らない、突如訪れるのである。その終末への備えは祈り続けることである。そのためには思慮深くふるまうこと、心を整えることが大切である。パウロも「霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい。」(?テサ2:2)と述べている。「ルターは、明日、主イエスの再臨があると知らされたとしても、その日、リンゴの樹を植える計画があったら、予定どおりリンゴの樹を植える、ということでした。」(小畑進著作集第5巻ペテロの手紙第一講録P376いのちのことば社)。私たちはたとえ再臨の時が明日であると知らされたとしても慌てふためくことなく普段の生活を続けられる様な歩み、日々主のみ前にかげひなたの無い歩みをしょう。

2016/7/12(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書42:14-17 賛美 新聖歌391
 神は42章の始めにしもべを選び、民を顧みられると語られたが、その中で7節において「見ることのできない目を開」かれると言われた。14節では神が始められるこの大きな変化において、出産のために苦しむ母親のイメージを用いてご自身を示される。神はこの大きな変化を起こされるとき、人々が新しい場所へとより進みやすいように足元の悪い道を平らにされる。さらに安全に歩いていけるように光を与えられる。神がみ心を定め、救いを宣言されるとき、人々が神に従って歩めるように道を平らにし、光を与え、すべてを整えてくださる。しかし、それらは無条件に民全体に与えられるわけではない。神が新しいことを始めようとされるときになお偶像に依り頼み、それらを礼拝する者は神の恵みに与ることはなく、逆に恥を受けるのである。
 神がことを起こされ、新しいことをなさるときに私たちはしっかりと神のみに信頼を置こう。

2016/7/13 (水) 担当 高谷清師  ?ペテ4: 7-11 賛美 新聖歌 427
 祈り続けるために大切なことの第二は「身を慎む」ことである。「身を慎む」と言うのは、それ自身は悪でないものであっても、私たちを熱中させ、虜にし、祈りから遠ざけるものを避けることである。ヨハネは「世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。」(?ヨハ2:15-17)と述べている。またパウロは「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。」(コロ 3:2-3)と述べている。私たちは、経歴、財産、レクリエーション、名声、友交、学歴、権戚といった、本質的に「善い」ものによって提供される危険について熟考しょう。

2016/7/14(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書42:18-4 賛美 新聖歌233
 目の見えない者のために神が道を平らにし、闇に光を与えられるという希望を与える言葉に続いて、目の見えない人は誰かが語られている。神が解放の業をなされると明言された後で、意外にも目が見えず耳が聞こえない人は主の僕であり、歴史を通じてのイスラエルであったとして、再び民の不従順が指摘される。ようやく神が民を救うと約束されたにもかかわらず、再び民の罪が指摘されるという現実を目にして私たちは困惑する。しかし、相変わらず民の目が閉ざされ、耳が聞こえない状態でありながら神が救いの業をなされると決められたのは、民が悔い改めという条件を満たしたからではなく、ひとえに神の側の選択であり、恵みであったということを悟る。
 神は憐れみによって救いの業を始められる。その業を見るときに民は神に立ち帰り、従うという選択をすることができる。救いはひとえに神の主導による神の恵みである。

2016/7/15(金) 担当 高谷清師  詩編22:13−22  賛美 新聖歌 231
 「雄牛が群がってわたしを囲み/バシャンの猛牛がわたしに迫る。餌食を前にした獅子のようにうなり/牙をむいてわたしに襲いかかる者がいる。」ぺトロは「事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。そして、実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです。」(使 4:27-28)と述べている。そして「わたしは水となって注ぎ出され/骨はことごとくはずれ/心は胸の中で蝋のように溶ける。口は渇いて素焼きのかけらとなり/舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。犬どもがわたしを取り囲み/さいなむ者が群がってわたしを囲み/獅子のようにわたしの手足を砕く。 骨が数えられる程になったわたしのからだを/彼らはさらしものにして眺め」と語られている。マタイは『そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。」』(マタ 27:39-42)と述べている。このような危機の中に在って主は祈られる「主よ、あなただけは/わたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ/今すぐにわたしを助けてください。わたしの魂を剣から救い出し/わたしの身を犬どもから救い出してください。獅子の口、雄牛の角からわたしを救い/わたしに答えてください。」と。しかしイザヤは「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。」(イザ 53:10a)と述べている。私たちは一口に「十字架」と言うが、主が耐えてくださった想像を絶する苦しみの中に自分の罪の重大さに思いを致し、罪をもてあそぶことの無いよう謹んで歩もう。

2016/7/16(土) 担当 高谷由紀子師 ルカ 18:9-14  賛美 新聖歌 196
ぺトロは「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」(14:31)と強い信仰を告白していました。しかし主が裁判を受けられるに至って「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」という女中の言葉に狼狽し三度イエスを否定してしまいました。これは主が予告された通りでした(14:30)。信仰告白すべき時にぺトロは簡単に主を否んでしまったのです。人間の決心のもろさを見るのです。しかしその後ぺトロは本心を取り戻し、主を否んだ不信仰の罪を深く悔いました。悔い改めることなく、すべてを自分の手で回復しょうとしたユダ(マタ 27:3-5)とは違っていました。ぺトロは悔い改めることによってイエスの弟子であることを示し、信仰に留まることが出来ました(?コリ7:10)。私たちもぺトロと同じもろさを持っています。罪を悟ったなら、悔い改め主のもとに立ち帰りましょう。”,,961″