2016/7/18-23
- 2016.07.18
- ディボーションの友
2016/7/18(月) 担当 高谷清師 ?ペテ4:7-11 賛美 新聖歌 225
万物の終わりの時を前にして私たちがなすべきことは心を込めて愛し合うことである。ヨハネは「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(?ヨハ 4:10)と述べ、更に「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。」(?ヨハ 4: 7)と述べている。またパウロは「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ロマ5: 5)と述べている。愛は神に由来するものであり、御子によって私たちに明らかにされ、聖霊によって私たちの心に注がれているのである。私たちは心に注がれたこの愛をもって互いに愛し合うべきである。それにしてもキリスト教界においてさえ、憎しみ、偽り、偽計、奸計・・・・・の類のなんと多いことであろうか。そのようなものによって世の地位、富、栄誉等を得たとしても、終わりの時にはすべてが壊滅するのである。その時に耐え得るのは信仰、希望、愛である。
2016/7/19(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書43:1-7 賛美 新聖歌170
創造者である神からイスラエルに対する力強い贖いの宣言がなされる。イスラエルの贖いを宣言される方はかつてイスラエルが奴隷の地であったエジプトを出て紅海を渡った時に彼らを導かれ、共におられた神である。歴史を通してイスラエルを守られた方が再び贖いを約束し、国々に散らされた民を四方から呼び集めて回復すると語られる。この力強い宣言は疑いなく信ずるに値する。なぜならここにはその宣言の根拠が明確に語られているからである。神がこのことを宣言されるのは神がイスラエルを深く愛しておられるからである(43:4)。
神は御自分が造られたすべてを愛しておられる。たとえ神に造られた私たちが神の恵みを受けるに値する完全な歩みをすることができなくても、神はその愛の故に贖ってくださり、ご自身の御名の栄光を表される。力強く贖いを宣言される神が私たちをも深く愛して下さり、救いを与えてくださった。この恵みを噛みしめながら、感謝をささげよう。
2016/7/20 (水) 担当 高谷清師 ?ペテ4: 7-11 賛美 新聖歌 222
「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい」と語ったペトロは「愛は多くの罪を覆うからです」と言う。ヨハネは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハ 3:16)と述べている。律法によっては赦されることの無い罪人である私たちは、唯キリストの愛に覆われることによってよってのみ、キリストが私たちを愛して十字架上で流してくださった血潮に覆われることによってのみ、罪の赦しをいただけるのである。そしてヤコブが「罪人を迷いの道から連れ戻す人は、その罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになると、知るべきです。」(ヤコ 5:20)と述べているように、キリストの愛に覆われ、罪の赦しをいただいた私たちが、そのキリストの愛をもって罪びとを愛するとき、彼の罪もまた覆われ、救に与るのである。世人を愛し、福音を伝えよう。
2016/7/21(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書43:8-15 賛美 新聖歌281
多くの民を呼び出し、証人を立てて語らせ、民に聞かせている情景は裁判を見ているようである。この場において主はご自身が唯一の神であることを強調される。神ご自身の他に救い主はいない。ひとたび神が御業を始められると誰もそれを止めることはできない。他に神はないと宣言されるお方をおいて他にイスラエルを救い出せる者はない。この唯一の神がイスラエルを贖う彼らの聖なる神である。この唯一の神が当時の世界を支配していたバビロンの繁栄を滅ぼすと言われる。
神が宣言された虫けらのようなイスラエルの救いは世界帝国の圧倒的な力を目の前にして絵空事のように響くことであった。しかしこれは唯一の神の宣言であるから信じるに値する。世界中に比べるものがない唯一の神のことばにこそ力がある。
2016/7/22(金) 担当 高谷清師 詩編22:23−27 賛美 聖歌556
厳しい苦難の中に在って祈り求める詩人に対し神は沈黙を守っておられた。苦しみが極限に達した時、詩人は神の答えを見出すことが出来た。詩人は「主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく/助けを求める叫びを聞いてくださいます。」と告白している。主イエスは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタ27: 46)との悲痛な叫びを残して息を引き取られた。しかしイザヤは「見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる。」(イザ 52:13)と記している。そしてパウロは「聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。」(ロマ1:4)と述べている。主の弟子たちは裁判の席において奇跡的放免を願って祈ったであろう。また主が奇跡的に十字架から降りて来られることを願ったかもしれない。しかし奇跡は起こらず、主は十字架上で息を引き取られた。弟子たちは絶望の淵に沈んだ。しかし三日目の朝主はよみがえられた。弟子たちは喜びに満たされ、兄弟たちに語り伝え、賛美した。祈りに対する答えを得ることが出来ず、苦しみの中にある兄弟姉妹方、私たちが御言葉に従い、御言葉を生きているなら、その祈りは聞かれていることを確信しょう。
2016/7/23(土) 担当 高谷由紀子師 マタイ18:1-4 賛美 新聖歌394
弟子たちが主イエスに天の国でいちばん偉いのは誰かを尋ねると、主イエスは一人の子供を呼び寄せて「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」と言われました。弟子たちは自分が偉い人になりたい、人に認められ、称賛されて人よりも上になりたいと思っていました。しかし主が教えられたのは頑張って功績を残して認められなさいということではありませんでした。逆に子供のようになり、自らを低くするということでした。
人は誰でも表面では謙遜に振舞っていても、心の底には自分こそ偉いのだという思いが潜んでいます。しかし聖書は「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」(1ペトロ5:5)と記しています。私たちは日々神様の前にへりくだって信仰と従順をもって歩みましょう。”,,903″
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