2016/9/5-10
- 2016.09.05
- ディボーションの友
2016/9/5(月) 担当 高谷清師 ?ペテ4:17-19 賛美 新聖歌 393
この項の結びとしてぺトロは「だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。」と述べる。この箇所についてウェイン・A・グルーデム師は「これは一見ひどいように思われるが(なぜなら、それは時には私たちが苦しむのは神のみこころであることを意味するから)、よく考えて見ると、苦しみにおいてこれ以上に素晴らしい慰めは見出せない。それは神の善にして完全なみこころである。というのは、その苦しみの強度と存続期間の両方に限度を設ける知識が存在するからである。つまり、私たちの創造者、救い主、保持者、父であられる神によって設けられ、維持されている限度があるのである。そしてさらにこの苦しみは、ただ私たちの益のためであり、私たちをきよめ、主のもっと近くに引き寄せるためであり、生活の中で主にさらに似るものとするためである。これらすべての中にあっても、私たちは孤独ではない。「真実であられる創造者」の配慮に任せることができる。すでにご自身も苦しまれた救い主の交わりの中で喜び(13節)、私たちの上に喜んでとどまってくださる栄光の御霊(14節)の絶えない臨在の中で喜び叫ぶことができる。(ティンデル聖書注解ペテロの手紙第1P207いのちのことば社)」と述べておられる。パウロも「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(?コリ10:13)と述べている。主を仰ぎ見つつ、善をもって悪に勝つ者となろう。
2016/9/6(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書47:1-12 賛美 新聖歌339
エルサレムに対する回復の言葉とは対照的に、バビロンに対する厳しい裁きが記されている。エルサレムを破壊して捕囚としたバビロンは神に用いられたと記されていたが、ここではこのバビロンを神が裁かれるという。バビロンが神に選ばれた民でなかったから裁きを受けるというわけではない。事実、同様の厳しい裁きは3章ではエルサレムに対しても語られていた。厳しい裁きを宣告されたのは神の選びの民か否かという立場によるものでなく、彼らが社会的弱者や征服された者たちに対して残虐な行為をなし、自らを神の位において傲慢になったからである(47:6-7)。
社会における立場によって自身を評価したり、周囲の人々と比べるならば、人はたやすく傲慢になり、神のように振る舞い始める。これは神に対する罪であり、悔い改めの無いものは裁きを受ける。常に神に造られ、生かされていることを覚え、主を畏れつつ主に仕えよう。
2016/9/7 (水) 担当 高谷清師 ?ペテ5:1-4 賛美 新聖歌 390
この項においてぺトロは長老たちに対する勧めを記す。彼はここで自分のことを「長老の一人として」と記している。自らを「主の直弟子の第一人者」とは記さなかった。苦難に直面している長老たちの仲間として記している。これについてウェイン・A・グルーデム師は「これはその長老たちに、彼が自分自身をさばきが始まる者たちの一人として考えていること――たとえ使徒である彼自身さえも、さばきを免除されてはいないし、彼の読者のだれであろうと、自分は重要人物だから、あるいはきよめられているからといって免除されると考えるべきではないこと――を知らせることになる。(ティンデル聖書注解ペテロの手紙第1P209いのちのことば社)」と述べておられる。パウロも「むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。」(?コリ9:27)と述べている。信仰の指導的立場にあるからと言って裁きを免れるのではない。裁きに耐えさせるのは人に見るための外面を繕う見せかけの信仰ではなく、主に対する真実な信仰である。
2016/9/8(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書47:5-15 賛美 新聖歌366
バビロンが頼りにし、誇っていたものが列挙されている。それは当時の世界の覇者としての自らの力であり、むなしい言葉としての呪文であり、偶像であり、また星辰占いであった。バビロンに限らず古今東西、あらゆるところで人間の歩みにはこのような本当の意味では頼りにならないものを頼みとする歩みが溢れている。現代社会において力の無いものに頼り、救いの望みを置いている人々が真の神に立ち帰ることができるよう祈ろう。また、神を信じているからと言って安心するのではなく、常に私たちの心の隙に入り込む「頼りにならないものに頼る信仰」に心を奪われないよう、霊の目を開き、心を開き、み言葉に導かれて歩もう。
2016/9/9(金) 担当 高谷清師 詩編26:6−8 賛美 新聖歌 160
今や、あなたのいます家、あなたの栄光の宿るところ、神殿のある地は悪をなす者・反逆者の手に落ちた。ダビデは主のいます家に思いをはせながら、「わたしは手を洗って潔白を示し、あなたの祭壇を廻り、感謝の歌声を響かせ、驚くべき御業をことごとく語り伝えます。」と詠う。「手を洗って」という言葉について出エジプト記は「アロンとその子らは、その水で手足を洗い清める。すなわち、臨在の幕屋に入る際に、水で洗い清める。死を招くことのないためである。また、主に燃やしてささげる献げ物を煙にする奉仕のために祭壇に近づくときにも、手足を洗い清める。死を招くことのないためである。これは彼らにとっても、子孫にとっても、代々にわたって守るべき不変の定めである。」(出 30:19-21)と述べている。またピラトは主の判決に際し、群衆の前で手を洗って「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」と言った。ダビデは悪をなす者との関係を否定し、主を礼拝することを告白しているのである。
世に教会の不祥事は後を絶たない。また教会が世の組織である一面を持つ以上、さまざまの利権争いや悪が存在することも確かである。内村鑑三はそのような状況を見て無教会を主張した。その心状、まことに同感である。しかし私たちはキリストの体なる教会に召されている。ダビデと共に、教会の世俗性のなかに存在する悪に対し手を洗って決別し、真実をもって主に仕えよう。
2016/9/10(土) 担当 高谷由紀子師 ヨハ 12:1-8 賛美 新聖歌 390
過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行き、ラザロの家に入られた。そこでイエスのために夕食が用意され、マルタが給仕をしていた。ラザロはイエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。これを見た弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」と言ってマリアを咎めた。それに対してイエスは「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」と言ってマリアの行いを受け入れられた。それは深くイエスを愛したマリアの真心からの献げ物であったからである。主に喜ばれるのは人前の見せかけや計算ではなく、愛と真心による献げ物である。”,,958″
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