2016/9/19-24
- 2016.09.19
- ディボーションの友
2016/9/19(月) 担当 高谷清師 ?ペテ5:1-4 賛美 新聖歌 423
自らを「長老の一人、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者」として示したペトロは「あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。」と勧める。この言葉を記した時彼の脳裏には、甦られた主がガリラヤ湖畔で三度にわたってペトロに語られた「わたしの羊を飼いなさい」と言う言葉が去来していたであろう。私たちが牧する群れは「神の羊」であって、自分のものではないのである。また、彼らは「ゆだねられている」羊であって、「与えられている」羊ではない、即ち彼らは神の羊であって牧者の羊ではないのである。いつの日にか、主の求められる日に神にお返しをしなければならない者である。それ故私たちは、神が委ねた者一人一人に持っておられる姿を実現するよう、御言葉に従って導くべきことを自覚しておそれをもって奉仕に当たらなければならないのである。
2016/9/20(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書48:12-16 賛美 新聖歌269
ここからイザヤ書は主が呼び出した者たちについて語る。最初に呼びかけられているのは神が呼び出し、召し出したイスラエルである。彼らは聞かねばならない。どうして彼らは聞かねばならないのか、それは神が創造者だからである。イスラエルはこの創造主によって、言葉によって存在へと召し出された。神はイスラエルが存在し始めた最初から言葉によって命じられるとその通りに成就ほどの絶対的な権威を持った方である。この権威者がイスラエルだけではなくキュロスをも呼び出された。48:14-16にはキュロスの名は書かれていないが、彼は「主の愛される者」とまで言われている。主に油を注がれた(45:1)、主の牧者(44:28)とまで呼ばれたキュロスはさらにもう一つ驚くべき呼称を宛てられている。
イスラエルの民以外の人をも召し、愛し、用いられる神はそれを神ご自身の権威によって行われる。ご自身の絶大な権威を示してまで御心を成し遂げると語られる神は確かなご計画と御旨をもってすべてを治め、導かれる。
2016/9/21 (水) 担当 高谷清師 ?ペテ5:1-4 賛美 聖歌 321
続いてペトロは神の羊を牧する態度について記す。その第一は「強制されてではなく、神に従って、自ら進んで」世話をすることである。パウロは「この言葉は真実です。「監督の職を求める人がいれば、その人は良い仕事を望んでいる。」(?テモ3:1)と述べている。そして自らの働きについて「もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。」(?コリ9:16)・「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。」(?コリ5:14)と述べている。パウロの伝道生涯は苦難に満ちたものであり、誉を得ることも少なかった。しかし彼は、キリストの愛に駆り立てられ、そうせずにはいられない思いで福音を告げ知らせたのである。神の召しに応え、自ら進んで仕える者となろう。
2016/9/22(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書48:17-22 賛美 新聖歌19
イスラエルを召し出し、キュロスを召し出された神は再度イスラエルを呼び出したと語られる。すべてのものを創造された主がイスラエルをどのように導いてこられたかを語る。導き手である神は彼らを贖いだされた。エジプトでの苦しみから神が彼らを贖いだし、新しい関係へと召し出し、彼らが神との正しい関係の中で生きるために戒めを与えられた。その道しるべを頼りに進むならば神の祝福が与えられる。19節は創世記においてアブラハムに語られた約束である。イスラエルを創造された神は変わることがないお方である。この神がバビロンを出なさいと言われている。かつてエジプトから解放された神が、今またバビロンから解放してくださると宣言され、それに応えて出発せよと言われる。その命令は出発した旅路における保護をも含むものであった。
罪ゆえに領土を奪われ、捕囚の民となったイスラエルが再び元の地に帰りイスラエルとして生きていくのは民自身の力ではなく、権威ある神の導きによった。あらゆるときにイスラエルを導いた神が今日も私たちと共におられ、救いをなしてくださる。
2016/9/23(金) 担当 高谷清師 詩編26:10 賛美 新聖歌 427
「わたしの魂を罪ある者の魂と共に、わたしの命を流血を犯す者の命と共に取り上げないでください。」と祈ったダビデは「彼らの手は汚れた行いに馴れ、その右の手には奪った物が満ちています。」と語る。この箇所についてカルヴァンは「ダビデが述べている悪しき人々は、密かにみずからのうちに、欺瞞とたばかりとを発明するだけでなく、彼らが心の中に抱懐している悪意のすべてを、実行に移そうと、熱心に努力するからである。さらにまた、彼らの右の手は賄賂で満ちていますと彼が言うとき、われわれは彼が攻撃しているのは、一般大衆の中のだれかというのではなくて、もっとも目立つ人々や統治者たちである、と結論することができる。なぜなら、彼が述べているような腐敗が見いだされるのが、このような人々の間においてであるからである。なぜならば、金銭で一般民衆を獲得したり、何か悪行をなすように彼らを買収したりすることは起こりうるとしても、人人が贈り物を持って行くのは、裁判官やその他の地位のある人々、また国の政治を司る人人であることを、われわれは知っているからである。(カルヴァン旧約聖書註解詩篇?P321新教出版社)」と述べている。これらのことはイスラエル―神の民―において起っていることである。今日の神の民―教会―においては求められ、行われるべきは神のみ旨であり、それは祈りによって示されるはずである。しかるに、根回し、へつらい等が日常茶飯事となっているのは何故なのか。
2016/9/24(土) 担当 高谷由紀子師 ?コリント4:7-15 新聖歌 172
人は常に降りかかってくる様々な困難に立ち向かわなければなりません。自然災害、戦争、社会不安、また個人の生活の中で起こる生活苦、病気と、予期しないことに遭遇するのが人の常です。使徒パウロもまた多くの困難を経験した人でした。福音宣教者として受けた困難は数えることができないほどでした。?コリント11:16-28には想像を超えた苦難を受けたことが記されています。パウロ自身も「死ぬような目に遭ったことも度々でした。」(?コリント11:12)と告白しています。しかしパウロは「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。」(?コリント4:8-10)と証ししています。パウロは死人の内よりよみがえられたキリストの復活の力によって勝利を得ており、主の命が現されるために生きたのです。私たちもパウロにならって苦難を乗り越える生活を送る者となりましょう。”,,907″
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