2016/9/26-10/1
- 2016.09.26
- ディボーションの友
2016/9/26(月) 担当 高谷清師 ?ペテ5:1-4 賛美 新聖歌 394
次にぺトロは「ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。」と語っている。最後の晩餐の席において弟子たちの足を洗われた主は、ヤコブとヨハネの母が「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」と願い、これを聞いたほかの十人の者がこの二人の兄弟のことで腹を立てた時主は「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(マタ 20:25-28)と教えられた。キリスト者は主に倣うものであり、他者に仕えられるものではなく、仕える者である。
2016/9/27(火) 担当 ラウジー満世師 新聖歌166
神に選ばれた僕が島々と遠い国々、つまり世界の国々に対して口を開いた。主の僕は生まれる前から神によって選ばれていた。彼は他国のように剣を武器とするのではなく彼の口に与えられた神の言葉を武器として戦う。僕は全世界の国々に向かって大胆に語りかけ、またイスラエルの救いを通して神ご自身の輝き、栄光が現れるために選ばれた(3節)。そのような働きを与えられ、神から召された確信を持っている僕でさえ、働きは無駄であったと弱気になることもある(4節)。しかしそのような時にこそ僕を支えるのは生まれる前から召してくださった神ご自身である。神はイスラエルを救い、世界中にご自身の栄光を現すと宣言される。
罪のために国を滅ぼされ、希望のないどん底の状態にあるイスラエルに対して神は救いを約束し、ご自身の栄光を表された。わたしたちの救いもそれを通して神の栄光が全地に現されるのである。大胆に神の救いを証詞しよう。それを通して人々は神の栄光を見るのである。
2016/9/28 (水) 担当 高谷清師 ?ペテ5:1-4 賛美 聖歌 384
ぺトロは、ここまで長老たちがその務めを遂行するにあたっての在り方を述べてきた。それは、?強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。?卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。?ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。と言うものであった。イザヤは大牧者キリストの生涯について「見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」(イザ 53:2b-3)と預言している。パウロは「わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。」(?テモ4:6)と述べている。群れを導く使命を与えられた者の生涯は、地上においては苦難に満ち報い少ないものであるかもしれない。しかしペトロは「そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります。」と述べる。イザヤは大牧者について「それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。」(イザ 53:12a)と預言している。またパウロは「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。」(?テモ4:7-8)と述べている。主が備えていて下さる栄冠を望みつつ主から賜った使命に励もう。
2016/9/29(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書49:7-13 賛美 新聖歌338
イスラエルを贖う聖なる神がこれからなそうとしておられる御業を宣言される。バビロンとの戦いに敗れて国は荒廃し、土地を追われて捕囚となっている民のために、神は彼らの地を回復させる計画を持っておられた。今や国を追われたイスラエルが家畜を飼い、また荒廃した土地は豊かな牧草地となる。このような繁栄が再び神の恵みによってイスラエルにもたらされるというのである。それは常識では考えられない恵であった。
さらに国々の指導者、君侯たちまでもが、神がイスラエルのために立てられた僕に向かってひれ伏すと神は言われる。国を失ったイスラエルに対して支配権を持つ大国のバビロンがひれ伏すなど常識ではありえない。しかしそれはイスラエルの力の故ではなく、歴史の背後にあって支配し、イスラエルを選ばれた神の故に国々がひれ伏すのである。
人は目に見える状況によって判断し、常識で考えれば資源も持たず、土地も失い、国家として滅びたイスラエルに回復が訪れるなどとは考えられない。しかし、神は御心に従って選んだものを回復させ、それによってご自身の栄光を全地に示されるのである。
2016/9/30(金) 担当 高谷清師 詩編26:11-12 賛美 新聖歌 427
詩人は前節まで、悪に満ちた世に在って神の前に正しく歩むことを追い求め、彼らと共に自分の命を取り上げない様に祈り求めてきた。彼は自ら正しく歩むことを願いながらも、悪をなす者に目を向けるとき、心は不安と怒りに囚われそうになり、「わたしの魂を罪ある者の魂と共に、わたしの命を流血を犯す者の命と共に取り上げないでください。」と祈ったのである。神と正面から向き合ったとき詩人は「わたしの足はまっすぐな道に立っています。聖歌隊と共にわたしは主をたたえます。」と告白する。
幼かった時、家の近くに川が流れており、幅45cmほどの板橋が架かっていた。増水した時、下を流れる水に目を移すと橋がどんどん上流に移動しているような錯覚におちいる。それに囚われて次の一歩を上流側に踏み出すと転落するのである。小畑進師が言われるように、今の世は玉石混滑である。(9/16引用参照)。悪はいつの世にも、いかなるところにもはびこっている。それらに心を囚われると道を踏み外す。ヘブライ人への手紙の記者は「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」(ヘブ 12:2)と述べている。しっかりと主イエスを見つめながら歩もう。
2016/10/1(土) 担当 高谷由紀子師 ?コリント4:7-15 新聖歌 172
弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と尋ねました。そこでイエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」と言われました。弟子たちは自分が偉い人になりたい、他人に認められ、賞賛されて他の人よりも上になりたいと思っていました。人は誰でも表面では謙遜を装っていても、心の底には自分こそが偉いのであると言う思いを秘めています。しかし聖書は「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる」(?ペテ5:5)と記しています。日々、神の前にへりくだって信仰と従順をもって励みましょう。”,,899″
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