2018/8/6-11

2018/8/6(月) 担当 高谷清師 ヨハ 9:13-17 賛美 聖歌 304
 人々は前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。ファリサイ派の人々は改めて、どうして見えるようになったのかと尋ねた。そこで彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」と。イエスが子の御業を行われたのが安息日であったのを知ってファリサイ派の人々一部の者たちは「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と断じ、他の者たちは「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言った。こうして、彼らの間で意見が分かれたのである。ヨハネは「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」(ヨハ 3:17-18)と述べている。キリストのみ名は裁きをもたらすのである。

2018/8/7(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書32:16-25 賛美 新聖歌325
 今まさに敵の手に堕ちようとしているエルサレムに土地を購入せよという神の命令に従ってエレミヤは土地を購入し、続いてこの祈りを捧げている。エレミヤがこの祈りにおいて神に問いかけていることは25節に凝縮されている。なぜ陥落寸前の土地を購入するなどという不合理なことをしなければならないのか。エレミヤは神の言葉に従っているが、心は混乱している。その時にもエレミヤは長々と歴史において保たれてきた信仰告白を述べている。17節から22節まではイスラエルの神殿での礼拝で繰り返し告白されてきた信条である。神がなさっていることを理解できないもどかしさや不安がありながら、エレミヤは信仰の土台を確認するためにこの伝統的な礼拝の場で用いられてきた信仰告白を述べる。
 教会にも歴史を通じて教会が受け継ぎ、告白し続けてきた信条がある。時にこれらはあまりに儀式的で、ダイナミックな霊性をそぐと言われる。しかし信仰告白は、信仰が揺らぐときに信仰の土台を確認するために有効である。これもまた神が与えてくださった信仰の財産である。心を込めて告白し信仰を確認したい。

2018/8/8(水) 担当 高谷清師 ヨハ 9:18-23 賛美 新聖歌 425
 ユダヤ人たちは盲人であったのに目が見えるようになった人の証言を信じなかった。彼らはこの人の両親を呼び出して「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」と尋ねた。それに対して両親は「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」と答えている。ヨハネはその理由を「ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。」と記している。「会堂からの追放は日常生活に重大な支障を及ぼすものであり、両親はそれを恐れたのである。
 今日、私たちの社会では信教の自由が広く認められており、迫害などあり得ないと考えられている。しかしそれは表面上のことであり、イエスキリストを信じる時、実際には様々な困難が伴う。しかし私たちは固く信仰に立って御名を告白しつつ歩もう。

2018/8/9(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書32:26-44 賛美 新聖歌275
 神がエレミヤの祈りに答えられる。最初に神は御自分が命あるすべてのものの神であり、全能であると言われる。エレミヤ自身が何故このタイミングで、どうして自分が土地を買わなければならないのかという疑問を神に投げかけた時、それを問うたことを叱責なさらなかった。しかし同時に神が全能であり、人には納得できないこともすべて御心に従って行われることを教えておられる。人の目には回復の希望が全く見えないときにも神は眼前の大きな災いを越えて与えられる繁栄の回復を見ておられる。
 エレミヤの問いが最悪の状況において土地を買うことへの疑問であるなら、それに対して答えは与えられた。しかしそれが何故エレミヤ自身が選ばれたのかということであれば、その答えは与えられていない。神は私たちが自由に祈り、訴えることを許しておられるが、すべてにおいて私たちが満足するように答えられるという保証は与えておられない。それゆえ主がゲッセマネで祈られたように、自分の願いを申し述べつつ「神の御心がなるように」と願う信仰を持ち続けたい。

2018/8/10(金) 担当 高谷清師  詩 38:10 賛美 新聖歌 282
 ダビデは重い病に罹って激しい苦痛の中にある。その原因が自らの愚かな行いであることを知っている。今、彼の心は肉体の苦痛と自らの愚かな行いへの悔恨の思いに圧迫されて、もう立てないほど打ち砕かれ、心は呻き、うなり声をあげるだけである。そのような中に在ってダビデは目を上げて主を仰ぎ見る。そして「わたしの主よ、わたしの願いはすべて御前にあり/嘆きもあなたには隠されていません。」と告白する。
 私たちは、自ら罪を犯した時、あれほどまで愛してくださった神を裏切った今「もはや神の前に出ることもできない」と言った思いに囚われ苦悶する。しかし、私たちが言いつけに背いた子を叱責する時のように、罪を犯した者の上に神の愛の御手は伸べられているのである。パウロは「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリ 4:6-7)と述べている。

2018/8/11(土)担当 高谷由紀子師 マコ 12:41-44 賛美 新聖歌 391
 神への献げ物は献げた分量の多少によって判断されるものではない。人にはそれぞれ能力の違いがあり、貧富の差がある。貧しいが故に多く献げられなくてもそれを悲しんだり卑下したりする必要はない。また、富んでいるが故に多く献げたとしても、それによって高慢になってはならない。貧しいが故に多く献げられない人を見下してはならない。大切なことは自分に与えられているものを信仰により、神のみ旨に従って献げることである。イエス様は貧しいやもめの献げたものを、額の多少ではなく、生活費を全部入れた、神への感謝と信仰を見られた。”,,557″