2017/1/23-28

2017/1/23(月) 担当 高谷清師  ヨハネ 1: 29-34  賛美 新聖歌 202
 ヨハネは主イエスを見て「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」と語っている。それは水で洗礼を授けるためにヨハネをお遣わしになった方が、「“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」とヨハネに語っておられ、ヨハネはそれを見たからである。主イエスがヨハネからバプテスマを受けられた時の様子についてマタイは「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。」(マタ 3:16-17)と記している。このことによって神はイエスが真の救い主であることを世に確証されたのである。主は言われる「わたしにつまずかない人は幸いである。」(ルカ 7:23)と。

2017/1/24(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書62:1-5 賛美 新聖歌216
 捕囚の地からエルサレムに帰ってからもエルサレムが完全に回復されるまではなお年月を要した。回復が進まない中でいら立ちや不安を覚える民に足して神は語られる。苛立ちが募る中で民は「神は私たちを助けることをあきらめられたのだろうか?」と疑い始める。その信仰の危機において神はシオンのために、「わたしは決して口を閉ざさない(1節)」と断言し、イスラエルはもはや否定的な名前で呼ばれることはなく、神に「望まれるもの」と呼ばれると約束し、彼らを励ましてくださった。
 目に見える状況が厳しいときには神は私を見捨てられたのだろうか?と不安になる。しかし神は真実であり、常に神の民を変わりなく愛し、支えてくださる。どのようなときにも主を見上げ、主の助けと導きを確信して歩もう。

2017/1/25(水) 担当 高谷清師  ヨハネ 1:35-42  賛美 新聖歌 284
 ヨハネは自分と一緒にいた二人の弟子に歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。福音書記者はそのうちの一人の名を「シモン・ペトロの兄弟アンデレであった」と記している。従ってくる二人に対して主は「何を求めているのか」と問われ、二人は「どこに泊まっておられるのですか」と問い、泊まっておられる所を見、その日は、イエスのもとに泊まったのである。二人は路上で立ち話をしたのではない。主イエスと食卓を共にし、共に泊まり、親しく交わり、教えを受け、体得したのである。今はインスタントの時代である。「100分で名著○○○」と言う書物が幅を利かす。しかしキリストの道は生涯をかけて追い求めるべきものである。パウロは言う「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(ピリ 3:12-14)と。

2017/1/26(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書62:6-12 賛美 新聖歌299
 神はイスラエルの回復を御自分の力強い右の手にかけて誓われた。主は誓いを破ることはなさらない。イスラエルの回復を約束して下さった神は真実であるから、イスラエルは再び恥に陥ることを怖れる必要はない。ただ神に目を向け続け、主との交わりの中で日々前進すればよいのである。そうすればイスラエルに答えて神は彼らを導き、祝福してくださる。再建されたエルサレムとイスラエルの民を見る他国の人々は、もはやイスラエルを侮ることはない。彼らが確かに主に覚えられ、贖われたことを知るからである。
 私たちが目先の厳しい現実におびえることなく神を信頼して進むとき、救い主である主が必ず導いてくださる。私たちが与えられた神からの祝福は私たちだけの喜びにとどまらず、神を信じない人々に対しても、主の栄光を示す大きな証となる。私たちの生活を通して主の栄光が表されるために、まず疑うことなく主を信頼して、主に従おう。

2017/1/27(金) 担当 高谷清師  詩編29:9  賛美 聖歌 196
 ダビデは「神殿のものみなは唱える/「栄光あれ」と。」と詠う。この箇所についてカルヴァンは「われわれが神を認識し、神を讃美するには、空中の雷や雨や暴風、山や林にまで行き渡っているのとは別の声を必要とすることを、知るに至るためである。もし神がわれわれに向かつて叡知的に語りかけられず、その父らしき慈愛をわれわれに感得させることによって、われわれをみもとにやさしく引き寄せられないならば、われわれは常に無言のままでいることになるであろう。それゆえに、われわれのうちにあって、神の恵みと完全なみこころを顕わにすることによって、われわれの心を喜ばせ、われわれの唇を押し開いて神への讃美を歌わせるのは、ただ救いの教えだけである。(カルヴァン旧約聖書註解詩篇?P349新教出版社1970)」と述べている。パウロは「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(?コリ1:18)と語っており、ヤコブも「だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。」(ヤコ 1: 21)と述べている。私たちに救いを得させるのは神のことばである。日々御言葉に親しもう。

2017/1/28(土) 担当 高谷由紀子師 ?サム3:1-10 新聖歌 316
サムエルは幼い時から祭司エリのもとで主に仕えていました。ある日、寝ている時に主が「サムエルよ。」と呼ばれたので、エリに教えられた通り「どうぞお話しください。僕は聞いております。」と答えて主の言葉に耳を傾けました。その日以来、サムエルは主の言葉に聞き従うことを第一としました。
 サムエルは「主が喜ばれるのは/焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり/耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。(?サム15:22)と言っています。またパウロは「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ロマ 10:17)と述べています。私たちも、神に向って様々な願いを語る以上に、御言葉に耳を傾け、聞き従う者になりましょう。”,,788″